第10話 〜心の傷に染みる雨〜
シゾンタニアが悲しみに暮れた翌日、雨はまだ止んでいなかった。ユーリは薄暗いシゾンタニアの町の中を、傘もささずに買い出しに出かけた。向かった先は、ペットフードの置いてある店だった。ランバートの命を、仕方なくとは言え奪ってしまった責任からなのか、朝目覚めてからというものの、彼は何よりもラピードを優先していた。そんな彼が紙袋を手に店を出ると、遠くに人だかりができていた。それは、昨日の事件で亡くなった人の葬儀だった。棺は雨に濡れ、そしてそれを見送る人々の顔も、傘の中で濡れていた。ユーリはその光景から目を背け、静かに歩きだした。
「お兄ちゃん!」
すると、しばらく歩いたところで、彼の背に向かって呼びかける声がした。ユーリがそれに気付き、足を止めて振り返ると、傘を手に駆けてくる1人の少女がいた。それは、昨日彼が助けたエマという子だった。
「これあげる。」
「え?」
エマはユーリの傍まで走ってくると、その手に握っていた小さな傘を差し出したのだった。それに思わずきょとんとして声をあげ、ユーリは少女を見つめた。
「昨日は、ありがとう。」
エマは笑顔でそう言うと、傘を彼の手に預け、背を向けて走って行ってしまった。それを目で追うと、エマが駆けた先には、彼女の母親がいた。彼女が持つ傘の下に入り、その後ろに隠れるように駆けこんだエマ。そして頭を下げる母の後ろから、また笑顔を見せたのだった。ユーリはそうして去っていく母娘を、その姿が見えなくなるまで、ただ呆然と立って見送っていた。あの襲撃で失った命はたくさんあった。だが一方で、こうして守れた命もあったのだ。小さくても、懸命に輝く笑顔が。確かに。
犬舎に戻ったユーリを、ラピードが嬉しそうに出迎えた。しかしそれは、父親を失った寂しさが理由ではない。
「おいおい、わかったから落ちつけって。詰まらすぞ?」
ラピードが心待ちにしていたのは、ユーリではなく、彼が買ってきた新しいドッグフードの方だった。皿いっぱいに盛られたそれを、ラピードはがつがつと平らげていく。それを黙って見守っていたユーリだったが、その時、ひとつの音を聞きつけた。それは犬舎の隣にある馬小屋の方から聞こえた。ドッグフードの箱を片手に立ちあがり、ユーリは犬舎の中から馬小屋をのぞいた。
「フレン…。」
するとそこには、帝都から戻ったばかりの久々に見る顔があった。雨に濡れた髪をタオルで拭いていた彼は、呼び声に反応して振り返った。そこにいたのは、ドッグフード片手に呆然と立っている久々に見る顔だった。
「犬の世話係は気楽でいいな。」
「…何?」
開口一番。フレンが疲れたような口調で発したその言葉は、今のユーリにとって傷口に塩を塗るものであった。
「お前こそ気楽でいいよな。式典でちゃんと前習えはできたのか?」
「どいてくれ。僕は暇じゃないんだ。」
苛立った足踏みでユーリがフレンに向かって言えば、彼はユーリを軽く突き飛ばして馬小屋を出ていく。彼に構う事が億劫だというように、これまた苛立った口調で言いながら。
「親父が騎士団員だと贔屓してもらえていいよな!」
それは、父親の話題を避けたがっていたフレンには禁句だった。ユーリは敢えてそれを選んだ。案の定フレンはその挑発に乗り、カッと目を見開いてユーリのもとへと舞い戻って行った。そして犬舎から顔を出したラピードの前で、フレンの拳がユーリの顔面へと飛んだ。
「てめぇ…そういうのだけは一著前だな!!」
グシャッと音を立て、ユーリの手から離れたドッグフードの箱は、ぬかるんだ地面の上へ中身と共に投げ出された。左頬を殴られ、尻もちを突かされたユーリは、瞳を鋭くしてフレンへと飛びかかった。胴目がけて低く突進してきた彼の背をフレンが上から肘で反撃し、ユーリはその一撃で怯んだように見えた。だが、次の瞬間、見下ろすフレンの顎に向かって拳を飛ばして返してみせた。フレンはその一撃で動きを鈍らせたが、仕返しにユーリの腹へ蹴りをいれた。それによって少しばかり飛ばされたユーリ。だが、それもわずかな間だけで、痛みをものともせずに拳をフレンの顔面目がけて飛ばしたのだった。彼は右からきたそれをかわしてみせたが、続けざまに襲いかかって来た左の、ユーリの利き手の拳を受けてしまう。その強い衝撃にかわまず、腕を強く振り払い、またユーリの顔面へと一撃を加えた。
「ワンワン、ワン!ワオーン!」
そんな2人の取っ組み合いを見ていたラピードが、自身に止める力がないのを知っているかのように、誰かを呼ぶように大声で吠え出していた。フレンへと飛びかかったユーリは、そのまま彼を地面へと押し倒し、馬乗りになって顔面を殴っている。そしてフレンも、やられてばかりではない。身体をひねってユーリを転がせ、された以上を返すように全力で殴りにかかったのだ。泥にまみれながら、2人は殴り続けた。まるで、やり場のない怒りを表すように。
「!」
その時、ラピードの声を聞いて駆けつけたのか、クレイが揉め続けている2人の元へと走ってやって来た。そして立ち膝の状態で殴り合っている2人を引き離し、その間に割って入ったのだ。
「クレイ!てめえ、邪魔すんな!」
「どいてください!クレイさん!」
だが少年らは、頭に血が上っているおかげで、それくらいでは引き下がろうとしなかった。今にも殴りかかろうと構えている。クレイはそんな2人の間に立ったまま、両者を睨み、そして小さく肩をすくめた。そしてユーリとフレンが再び地面を強く蹴った、次の瞬間だった。
「うおおお……ぐあっ!?」
「なっ!?」
2人がクレイの前で衝突しようとした刹那、ユーリの喉元目がけて手刀が飛び、フレンの腹には強烈な蹴りの一撃がお見舞いされた。そして両者がそれぞれ受けた攻撃に怯んでいる、一瞬のことだった。クレイは咳き込み苦しんでいるユーリの片腕をとり、片膝をついてうめいているフレンの横へと背負い投げ飛ばしたのだ。
「な……あっ!?」
その圧倒的強さになすすべなく、2人そろって地面へと転げた次の瞬間だった。クレイはキッと鋭い瞳と抜き身の剣を2人に突き付けた。これ以上の勝手は許さない、というように。抵抗できない事を理解すると、ようやく彼らは大人しくなったのであった。
「お前ら、何度そこに立たされんだよ?」
ナイレンの呆れた怒号が、泥まみれの少年2人へと飛んだ。彼の執務室には今、ユーリらをこの部屋へ連れこんだクレイとナイレン、そしてガリスタがいる。ナイレンはいつもの席に座って、面倒そうに片肘をつきながらむくれている2人へ声をかけた。
「ちょっと風呂入って来い。話はそれから。」
「そんな呑気な事してる場合じゃねぇ!早く何とかしねぇと!」
「すぐには無理だ。」
だが、ユーリはナイレンの言葉に従おうとしない。今彼の頭を支配しているのは、昨日の惨劇だった。目の前で失った多くの命。その死を悼み、悲しみに暮れる者たち。そして、この危険な中でなおも生活を続けている者たち。このままでは、また魔物に襲撃され、それすらも失われてしまうに違いない。そんな危機を、ユーリは肌で感じ取っていた。だがその隣で、フレンの口から絶望的な事実が告げられた。
「式典後じゃないと、援軍は出せないそうです。現場を保持せよ、との命令です。後ほど、書類をお持ちします。」
「そうか。ご苦労。」
ナイレンは静かに、特に感情を表すこともなくポツリと言うだけだった。フレンのその言葉に激怒したのは、その隣に立つユーリの方だった。
「お前、ちゃんと状況の説明したのか!?」
「したよ!でも、これが本部の決定なんだ!」
「式典のあとだなんて、そんな悠長なこと言ってる場合か!?」
「僕だって言ったよ!!でも本部にとって、優先されるのはこっちじゃないんだ。仕方ないだろ!」
「人が死んでんだぞ!?」
「僕の努力が足りないって言うのか!?」
「もうやめろ。」
再び口論を始めた2人に、いい加減にしろとばかりにナイレンの喝が飛んだ。ここで言い争うことに意味はない。ただ無駄に時間が過ぎるのみだ。それがわからないわけではないが、それぞれの抱えた気持ちのやり場を、今は互いにぶつける事でしか見つけることが出来ずにいるのだろう。彼らは互いにそっぽを向き、その想いを無理やり押し込めたのだった。
「フレン、嫌な役回りさせちまったな。配慮が足りなかった。すまん。」
ナイレンが発したその言葉に、フレンは暗い表情で俯くだけだった。
「隊長!」
「事態は更に悪化している。これ以上魔物が押し寄せてきたら、町を守れん。…明日、遺跡の調査に向かう。」
ユーリの急かす声に押されてか、しかし確かに自分の判断で、ナイレンは決断を下した。それにガリスタは目を丸くし、クレイは静かに受け入れ、そしてユーリの表情が明るくなった。
「無茶です!強行すれば犠牲者が出ます。本部の命令に背いては…!」
その中で一人、フレンが反論の声を上げた。だがその勢いは不自然に途切れ、彼はナイレンから顔をそむけた。
「親父さんのことか?」
フレンの不可解な様子に、静かに視線を上げたナイレン。そして彼が口にしたのは、フレンが最も触れたくない過去だった。
「父は…あの人は命令を無視しました。本部は攻撃を静止したのに…」
「あん時だって下町の人が死んだんだ。お前や町の人を守るためだろう?」
「父は、命令違反をして死にました。後には何も残りませんでした。私は、父と同じ過ちは犯したくないんです!」
それは、彼がまだ帝都下町に住んでいた頃の、幼い記憶。フレンの父ファイナス・シーフォは、彼と同じく帝国騎士の一員であった。剣を教えてくれ、厳しくも優しい、自らの誇りであった父。だが彼は、ある日突然この世から消えた。家族の元に帰ってきたのは、数少ない父の遺品のみだった。そしてフレンは何もわからぬまま、住み慣れた帝都を離れていったのだ。喪失感。亡き父がフレンに残したのは、そのような悲しい思いだけだった。そしてその死は、この場にいる皆が知っていた。ナイレンは肩をすくめ、ゆっくり椅子から立ち上がった。クレイやガリスタ、そしてユーリが視線を向ける中、彼は窓辺に立ち、闇に染まる外を静かに見つめた。
「俺達はここで生活している人たちを守るためにいる。それが騎士としての俺の務めだ。フレン、お前の親父さんの行動が過ちだったのか、答えを出すのはもう少し騎士をやってみてからにしてもいいんじゃねぇか?」
ナイレンは言いながら、微笑みをフレンへと向けた。少年はそれに何も返せず、ただ俯くだけだった。ナイレンはそれでも構わずに、くるりと振り返り、クレイやガリスタへと目を向けた。
「明日早朝に出動だ。いいな?ガリスタ、皆に通達してくれ。」
「…はい。」
その指示に、クレイはしっかりと頷き、ガリスタは戸惑いながらも返事をしたのだった。