第11話 〜交錯する意思〜
部屋に戻り、フレンは身体中についた泥を洗い落としていた。洗い終わった髪をタオルで拭き、鏡に映る自身の姿をまじまじと見つめる。そこにいるのは、殴り合いで頬を少し腫らしている、父と同じ道を歩む自分だ。そう。帝都の判断に、命令にそむいて出動しようとしている、忌まわしいトラウマと同じ道を進もうとしている、自分の姿…。心に靄を抱えたまま脱衣所を出ると、濡れた床が彼の目に入った。その原因であるユーリを叱ろうと口が開く。だが、フレンは直前で言葉を呑みこんだ。そんなくだらない事よりも、今は彼に言わなければならない事があったからだ。
「さっきはごめん。ランバートが死んだと知らなくて。」
「いや、俺も。まさか援軍断られたなんて…。」
ベッドに身体を預けていたユーリにフレンは、そしてユーリも、素直に自分の非を謝ったのだった。フレンは自分のベッドの端に腰をかけ、重たい空気の中、静かに切り出した。
「父の遺体は戻ってこなかった。少ない遺品を返されただけだ。死んでしまったら終わりだ。何も残らない。だから明日の出動には、納得していない。」
「すぐ近くの森まで魔物が来てる。街の中に入ってきたらどうすんだ?」
「結界があるんだ。そんなに簡単に入れるはずがない。」
「俺は隊長についていく。」
「この隊だけでは無理だと判断したから、援軍を頼んだんだろ?待つべきだ!」
「その間にまた被害者が出る。もう嫌なんだよ、誰かが死ぬのは!」
「僕達だって死んだら終わりだ!」
結界がある限り、シゾンタニアに魔物が入ってくる事はないかもしれない。だがそうして援軍を待つ間に、新たな犠牲者が出るという可能性は捨てきれない。もう誰も失いたくはない。だが、自分達が死んでしまえば、何も解決することなどできない。両者の考えは決して交わる事はなく、どこまでも平行線だった。
「…ラピードのとこ行ってくる。」
終わりの見えない口論に無理やり終止符を打つように、ユーリはベッドの傍らに脱ぎっぱなしにしていた靴をはき、部屋から出ていった。フレンはそれに口をはさむ事をせず、目で追う事もせず、黙ってユーリを部屋から送り出した。
「先ほどの話ですが、考え直していただけませんか?」
書庫の奥にあるガリスタの部屋。最低限の明りだけをつけた部屋の中で、ソファに腰掛けるナイレンに向かって、ガリスタはワインを用意しながらそう言った。
「明日には式典も終わります。援軍を待った方が…。」
「隊を整えてここに来るのに、何日かかると思ってる?」
「ですが…。」
差し出されたワイングラスを手にし、ナイレンは静かにガリスタを諭す。納得がいかないとばかりに表情を曇らせるガリスタに、ナイレンは己の意見を語った。
「それにな、援軍が来る前に片付けちまいたいんだよ。」
「何故です?」
「アレクセイ閣下は魔導器に関心が高いと聞いている。もし遺跡に強力な魔導器があるのなら、壊さずに持ってこいと言いかねん。エアルを異常な状態にし、生き物を凶暴にしちまってる。留守の間に、町の人間、隊員、家畜に被害が出ちまった。俺は、これ以上犠牲者を出したくねぇんだ。」
死んでいった人たちの無念を思ったのか、ナイレンの声は悲しそうだった。アレクセイが見つけた魔導器を扱い、再び同じような犠牲を生むかもしれない。それだけは避けたかった。そんなナイレンの思いを聞いた以上、ガリスタは彼の意思を否定するわけにはいかなくなる。彼は重たい口を、静かに開いた。
「…わかりました。ルートを検討します。」
「すまん。それと、魔導器を持って行くかどうかも迷ってる。」
仕方ないというように目を伏せたガリスタ。そんな彼に、ナイレンはもうひとつの悩みを切り出した。ガリスタは静かに、その瞳を正面へと向けた。
「エアルの影響を受けて暴発でもしたら…。」
それは、クレイがその耳で確かに聞いた情報。エアルの発生源と思われる遺跡に乗り込むのだ。エアルの影響を受けないと断言はできない。前回の魔物退治でも、魔導器の発動がずれるということが起きたのだ。ここぞという時に魔導器が発動しないという事故が起きでもすれば。それを考えると、遺跡調査以前に隊士らに被害が出る危険性がある。だからナイレンはそれを口にした。
「しかし、魔術が使えないと、隊の士気にも影響が出ましょう。我々はまだ、魔導器のエネルギーとなる魔核を完全にはコントロールできていません。前回も、発動のタイミングがずれただけでしょう?」
「…わかった。魔導器は持って行こう。」
ガリスタの説得に、ナイレンは静かに頷いた。
雨に濡れ、少しばかり冷えた身体を熱いお湯が温めてくれる。濡れて重くなった前髪を掻き上げれば、10年前に負った怪我が尚も痛々しげに現れる。左目から頬にかけての大きな火傷の痕のような傷。その傷跡に、クレイの片方の視界は塞がれてしまっている。二度と開く事のない目を、傷跡をそっとなぞった。古傷に触れても痛みはしないが、代わりにクレイの心のかさぶたが少しばかり剥がれおちていく。鮮明に思い出せる戦火。目の前で命を落として逝った両親。それでも必死に炎に包まれていく故郷から逃げ惑い、だがその最中で大けがを負ってしまった。それがこの顔の左半分と、普段は服の下に隠れているいくつかの小さな傷跡だった。
(…くっ。)
10年を経ても、それは辛い記憶でしかない。嫌な事を思い出した。そう言うように、クレイは心の中で舌を打った。普段はその傷を見ても過去を思い出したりはしないが、人魔戦争終結の式典の話を聞いたり、かけがえのない存在を失ったりと複数の要因がクレイの心に負担をかけたのだろう、ここ数日は感傷に浸りやすくなっていた。だが、残った藍色の瞳には強い意志が宿っている。それは過去ではなく、間違いなく現在と未来を見据えていた。
(もう、あんな思いはさせない。)
誰に対してなのか、クレイは静かに心の中で呟いた。そして温かい蒸気に包まれたバスルームから出て、置いてあったタオルに身を包んだ。
魔導器のランプだけで照らされた執務室。その部屋の主は一人がけ用のソファに腰掛け、一杯の酒を飲みながらローテーブルの上に置かれたひとつの写真立てを見つめていた。そこへ響いたノックの音。ナイレンは首をそちらの方向へ向け、来訪者を迎えた。
「ユーリです。」
「おーう、開いてんぞ。」
そして入ってきたのは、いつもよりも大人しいユーリだった。
「どうした?」
「あ、いや。何か、ちょっと眠れなくて。」
「柄じゃねぇな。」
思わぬ弱音に、ナイレンは小さく鼻で笑った。ユーリを隣のソファに座らせると、グラスに飲み物を注いで彼の前に差しだした。
「ほい、お前はジュース。」
「どうも…。奥さんと娘さん?」
「ん?ああ。二人とも死んじまったがな。」
出された飲み物に視線を移した時、ユーリの目に一枚の写真が映った。見事な桜の下に、茶髪の女性と赤茶の鎧を着た昔のナイレン、そして彼に抱きかかえられた彼と同じ色の髪をした幼い少女の3人がいた。クレイがそこにいないことから、恐らく2人が出会う前のものなのだろう。だがユーリの何気ない問いに、ナイレンが返した答えは思わぬものだった。驚いて顔をあげたユーリの目に映ったのは、少し寂しげで穏やかな、亡き家族を愛しむナイレンの瞳だった。
「ある事件でな、守ることが出来なかった。あの頃の俺は、今以上に帝国の命令が絶対だと思ってた。自分の判断で動いてれば、助けられたかも知れなかったのに。ま、その後色々あって田舎に飛ばされたってわけだ。ここ、帝都から離れてて色々気楽で良いんだよ。今回はそれが仇になってるがな。でも、同じことを繰り返したくはねぇんだよ。フレンの親父さんは偉いよなぁ。あいつはえれぇ否定的なんだが、俺は尊敬してんだけどなぁ。やっぱ大切なものは自分の手で守りたいんだよ……。」
そう話すナイレンを、ユーリはただ静かに眺め、聞いていた。上に従うだけでは、本当に守りたいものを守れない。その事を、その身を持って知っているナイレンの言葉は、自然と重かった。
「だから、今度は自分の意志で助けたいものを助ける。この街も、娘も、お前たちのことも、な。」
ナイレンはニカッと笑みを向けた。ユーリはその意志を感じ取りながらも、照れくさそうにグラスのジュースを口に運んだ。と、その時。
「ん?娘さんは確か亡くなったんじゃ…?」
「はあ?何言ってんだ。クレイのことに決まってんだろ。」
「ああ、クレイか……って、ええええええええ!!?」
納得した直後に絶叫をあげたユーリ。ナイレンはきょとんと少年を見つめていた。
「だってあいつ、ヒスカたちみたいな女用の制服じゃねえし、喧嘩強えし、全ッ然女らしいとこねえじゃんかよ!」
ユーリはグラスをテーブルに叩きつけ、明後日の方向を指さしながら身を乗り出してナイレンに抗議した。確かに、クレイは中性的な顔立ちをしている上に男性らしい服装を好んでいた。声で判別することもできず、体型もシャスティルのようではないためにすっかり男だと思い込んでいた。しかし、義理とはいえ親子関係であることを考えれば、彼の発言は失礼がある。だが
「まあ、喋れない事を知らずによく絡んでくる奴らがいたらしいからな。喧嘩が強いのはそのせいだろう。胸も邪魔だってさらし巻いてるみたいだし、鎧も動きにくいからって男ものだし、気付かなくても無理ねえか。…というか、たぶんクレイが女だって理解ってんの、ガリスタやユルギスくらいしかいないんじゃねえか?」
「…マジかよ。」
ナイレンはのん気に酒を口にしながら、ユーリにそう返すのだった。それに対し、ユーリは痛い頭を抱えて溜息をついた。ナイレンは少年を可笑しそうに見つめ、そしてフッと笑った。
「ま。あいつにとっちゃ、そんな事はどうでもいいんだろうがな。自分の思うもんのためなら、な。」
例え男性と間違われようが容姿をどう見られようが、自分の想いのためであるなら、彼女にとってそれは大した問題ではないのだろう。いや、それはクレイだけではない。過去の事故から現在の思考、判断を下すようになったナイレンも、真に守るべきもの、優先すべき物事を理解している。そのあたりの感覚の類似は、2人が親子であると改めて認識させられる。
「思うものの、ため…。」
ユーリはその言葉を、想いを聞きナイレンへ、そして手元のグラスへと視線を移して行った。グラスの半分ほど残された液体は、ランプの明かりを表面に映してゆらゆらと揺れていた。