第8話 〜守るべき命、討つべき命〜
まさか…。
目を疑った次の瞬間、ランバートは血を滴らせている牙を向き、それまで聞いたことのない―――犬のものとは思えない鳴き声をあげた。そして、その体は宙に浮き、彼の両横に共に姿を消した2匹の軍用犬たちの変わり果てた姿も現れた。一行は思わず目の前の事態に息を呑む。3匹をそのような姿に変えていたのは、先ほど馬車を襲っていた触手のようなクリーチャーだった。ランバートらの瞳と同じ赤い色をし、彼らをその先端部分に取り込んでいる。ユーリらの心に絶望が姿を見せた、その次の瞬間だった。
「うわあああああああ!!」
ランバートが一瞬のうちに、ギルドの男をまた1人掻っ攫っていく。それも、仲間だったユーリ達の目の前で。男は絶叫を残したまま覆う木々よりも高く持ち上げられ、そして、絶望に満ちた悲鳴を最後に戻ることはなかった。男の姿が見えなくなった空高くから、バケツの水をこぼしたように、ユーリを除くナイレン隊の仲間達の頭上に真っ赤な血が降り注いだ。ユルギス達は降ってきた大量の血に怯み、身を縮め、小さな叫びを上げた。
「ランバート…」
クリーチャーと化した仲間に、ユーリは力なく呟く。目の前の現実が夢であって欲しい、そう願うように。魔物と一体になってしまった仲間とは戦えない、その心の揺らぎを表すように。だが、口から紅い血をこぼしているランバートに、ユーリのその想いはもう届かない。メルゾムらギルドの一行を相手に、彼らの鋭い牙が絶えず襲い掛かる。
「…ひっ……やぁぁぁあああああああああああ!!」
その時、ヒスカの悲鳴が響き渡った。頭からかぶった大量の鮮血。全身が紅く染まっている。死の恐怖を覚え、震える自分の紅い掌を見つめ、半ばパニックに陥っていた。そんな彼女に、さらに恐怖が襲い掛かる。ヒスカの悲鳴を耳にしたランバートが、照準を彼女に変更し、すごい速さで牙を立ててくる。ヒスカはそのままランバートによって地面に押し倒され、必死に自分に向けられる牙に抵抗した。
「ランバート、やめて!!ランバート!!」
だが、ヒスカの必死の叫びも、もはや聞こえていない。牙から身を守ろうと出される彼女の腕へ噛み付こうと、ランバートの攻撃の勢いはいっこうに止まない。だが、そこへ白い光が割って入る。クリーチャー・ランバートはそれに気づき、ヒスカの元から一度退避した。代わりに彼女の前に現れたのは、剣を一閃させる隻眼の騎士だった。
「クレイさま…!」
ヒスカの危機を救ったのはクレイだった。怯えた瞳をしているヒスカをかばうようにして立ち、剣をまっすぐクリーチャーへと向けている。だが、その瞳には僅かながらも迷いが存在している。悔しそうに口を動かしランバートの名を呼ぶ。だが、そこからは何も聞こえない。それでも、彼の心に何か伝わらないかと願いを込めて。
「やめろ、ランバート…ランバート……」
クレイやユルギスらが、尚も彼らに襲いかかろうとするクリーチャー・ランバートと対峙している間、ユーリは呆然とその様子を見ていた。その心にはまだ戸惑いと迷いが行き交っている。だが、迷い続けているユーリの前で、ランバートは仲間を蹴散らしていった。武器を盾代わりにして攻撃を防ぎ、ユルギスらが地面を転げる。ヒスカはまだ怯えているようで、腕の魔導器をランバートに向けながらじりじりと後退している。そんな彼女を守ろうと、クレイがランバートに斬りかかっていく。だが、それは他の軍用犬の頭に邪魔をされてしまい、クレイの手から武器がこぼれる事となってしまった。ユルギスとメルゾムの叫び声が聞こえるのとほぼ同時に、クリーチャー・ランバートはクレイ目掛けて血に濡れた牙で襲い掛かった。
「ランバーーーーートっ!!」
もう少しでクレイが、という寸前で、ユーリの声が響き渡った。ランバートはピタッと動きを止め、声のするほうへ頭を向けた。歯を食いしばり、剣と悔しそうな瞳をまっすぐ向けるユーリが映る。そんなユーリを最優先対象と認識したのだろうか、クリーチャー・ランバートはそのまま彼へと向かっていった。ほぼ同時に、ユーリもランバートへと駆け出していく。
(ランバート…ごめん!!)
口に出さない謝罪の言葉。ユーリは力強く踏み込み、かつての仲間へ剣を振り上げる。緩やかになった時の中で、メルゾムやクレイ、ユルギスらが両者を大きな瞳で見ている。そんな中、ユーリの剣が敵を切り裂く音を上げ、ランバートは断末魔の叫びを森中に響かせた。
その夜。隊舎へ戻るユーリの心を映したように、その日はいっそう暗闇が町を支配していた。そんな中でふと立ち止まり、ユーリは抜き身の剣を目の前にした。刃独特の光を放つ彼の剣。だが、ユーリの目に映るものは、それだけではない。
「くそっ!!」
手に篭る力は増して、剣は地面へと投げ捨てられた。奥歯を鳴らし、ただその場に立ち尽くす。目に焼きついただけでなく、耳にも残っている。変わり果てた仲間。その仲間が起こした惨劇。そして、その仲間をこの手で殺した、あの感覚と光景、そして耳を劈くほどの悲鳴。
……けど、あれしか手がなかったんだ。どうしようもなかったんだ!
そう言い聞かせてみるものの、納得などできはしない。ユルギスらは、ユーリを責めたりしなかった。彼が考えるように、あれしか方法がなかったと考えているからだ。ただ一人、クレイだけが彼らと違う瞳を向けていただけだったが、それでも何も言わなかった。
「ワン!」
その時、小さな鳴き声が耳に入った。顔を上げると、隊舎の敷地内から尻尾を振って駆けてくるラピードがいた。ユーリがその場に立ち尽くしていると、ラピードはそんなユーリの周りを駆け、そして、彼が投げ捨てた剣に近寄った。小さな鼻でにおいをかぎ、そして剣から離れ、ユーリに背を向けてちょこんと座った。小さな尻尾を振り続け、まだ見えぬ父の帰りを、今か今かと首を長くして待っている。もう、彼が二度と帰ってこないとは知らずに。
「ごめんな、ラピード。俺、お前の父ちゃんを…!」
ユーリはそんなラピードを後ろから抱きあげ、その小さな背中に謝罪の言葉を紡いだ。ラピードは、彼の言葉の意味を知ってか知らずか、首をひねって彼の顔をペロッとなめた。暗闇の中でうずくまる1人と1匹。やがて雨が降り出し、彼らの身を、そして悲しみに暮れるシゾンタニアを少しずつ濡らしていった。そんな町の入り口前では、馬車や積み荷が夕方の襲撃にあった時のままにされていた。ローブをまとったナイレンとシャスティルは、その惨状を目にしてから帰還したのだった。
「何があった?」
「橋向こうまで魔物が来ました。」
「ヒスカ!」
城門に入ってすぐ、クリスがナイレンに報告をする最中、シャスティルは柱のそばにいる双子の妹の姿を見つけ、急いで馬から下りて駆け寄った。ヒスカのそばには、彼女の両肩にそっと手を置き、彼女を支えるようにして立つクレイがいる。しかし、今のシャスティルの瞳に映るのは憧れの先輩ではなく、青ざめた顔をしたヒスカの方だった。クレイがそっとヒスカから離れると、入れ替わるようにしてシャスティルが彼女の両肩をつかんだ。
「ヒスカ、大丈夫?ヒスカ!」
「……ランバート達が…魔物みたいになって…皆……それで…ユーリが…」
「ヒスカ…!」
蒼白な顔で語るヒスカ。目の前で起きた惨劇がその金色の瞳に焼きつき、今は離れてくれそうにない。今に倒れるか泣き出してしまいそうな彼女を、シャスティルは強く抱きしめた。自分が居ぬ間に起きた惨劇のショックを、少しでも和らげようとするように、分かち合おうというように。そんな双子を見つめ、クレイは少しだけ目を閉じ、そしてナイレンに視線を移した。クリスからの報告を聞き終えた彼はクレイと目を合わせ、そして静かに首を上下させた。
しん、と静まり返った暗い一室。ナイレンはそこをノックして訪れたものの、目当ての人物はそこにはいなかった。戸を閉め、しばらく考えた彼が向かった先は、犬舎だった。そこに眠っているのは、父親を失った事を理解しているのかいないのか、いつものようにすやすやと寝息を立てているラピードだった。そしてもう一人、そんな彼に添い寄って横になっていた者がいた。彼はナイレンがたてた僅かな物音に気がついたのか、ゆっくりと目をあけ、身体を起こした。ナイレンは近くの柵に腰かけ、キセルをふかしながら穏やかに、静かに口を開いた。
「聞いたよ。ラピードの世話頼むな。当分寂しがるだろうからな。」
「……すみません。」
「謝らなくていいんだよ。さ、部屋にもどれ。」
ナイレンはそう言って腰を上げた。しかし彼は、ユーリはそのあとに続こうとはせず、ただただ俯いていた。ナイレンの言葉に素直に従うことに、躊躇っているように。
「…風邪引くなよ。」
その気持ちを察したのか、ナイレンはそれ以上、何も言わなかった。ユーリをその場に残し、彼は犬舎から去って行った。