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 顔を洗うついでに井戸から水を汲もうと着流し姿で戸を開いた朔夜は、転瞬の間に戸を閉めた。そして慙愧の念に苛まれたのか、彼は顔をしかめる。
 外には葬式の準備を手伝う人々に混じって黒い公儀の着物が見えたからだ。
 ――本当に八丁堀が来ていたのか。
 お凛の噂話の真実は良くて六割程度と考えていつも聞いている彼だが、今回の情報はなかなか正確なものだったらしい。
 ――京の人間よりはマシだが、公儀の人間に目を付けられるのはまずい。
 朔夜は一つ息をつくと、戸から見えない位置に移動する。桶と手ぬぐいを片手に、彼は音を立てないように戸を開いた。





 葬式用の提灯を片手に、お凛は埃をはたいていた。赤い着物の袖を黄色の紐でくくった彼女は、大して着飾っていないにもかかわらず妙な色がある。彼女自身が遊郭の遊女をやっていた影響と言うものも少なからずあるだろう。しかし、今ではその色よりも逞しさの方に目が行くのは時の流れか。
 そんな彼女が提灯を綺麗にし終えると、ふと街道の方から近づいてくる黒い着物に気が付いた。気付いて、彼女は提灯をその辺へ置き去りにして影の方へと走りよる。
「長谷川の旦那じゃないですかい」
 嬉しそうに目を細めて、彼女は若い同心に軽く頭を下げる。頬に手をやる仕草は女のそれだった。
 それに足を止めて同心――長谷川が目を細める。
「お凛か、久しいな。源三は達者か?」
「もう、達者すぎて困りもんですよぅ」
 心底困ったように肩をすくめるお凛の冗談に、長谷川が笑う。その笑顔にお凛の頬に朱がさした。
 お凛はそんな自分の変化を長谷川に悟られないように視線を少しずらすと、話題を変えるために長谷川に問う。
「今日はどうしたんですかい?」
 お凛の問いに、長谷川はかるく首の後ろをかくと、苦笑いをしつつ口を開いた。
「八助の事についてな」
「あら。さっきまで他の同心方もいらしてたんですよ」
 長谷川の言葉にお凛が首を傾げる。
「少々事情があってな。聞かせてはもらえぬか?」
 微笑みながら頼む長谷川の顔を見て、お凛の顔がみるみる赤くなっていく。そして彼女は胸を叩いて宣言した。
「旦那のためなら何でも話しますよ」
 その姿は非常に男らしかった。





 遠巻きにその様子を伺っていた将守はうんざりしたように二人を見ていた。そして脇にいる善吉の腹を肘で小突く。それに二人のやり取りに釘付けになっていた善吉が我に返った。
「な、何しやがる!」
 そんな善吉の怒鳴り声にもお構い無しに将守は肩を落とす。そして彼は率直な感想を述べた。
「相変わらず長谷川のヤツは女たらしだな」
 普段通りらしい長谷川の言動に、将守は「やれやれ」と言った風情で首を振る。それに瞬間湯沸かし器よろしく善吉がまくしたてる。
「べらんめぇ! 旦那に向かって無礼な事言ってんじゃねぇ!」
 善吉のあまりの怒髪天を衝く様子に、将守は少し目を瞠(みは)った。しかしすぐにいつもの調子で笑う。
「本当の事だろうが。全く、長谷川のあの状況は羨ましいなぁ、善吉」
「う、羨ましいのは……確かに……って何言わせるんだ、こん畜生!」
 一瞬将守の言葉に惑わされそうだった善吉だが、すぐにまた怒鳴りだした。されど将守は特に気にした様子も無く別の方向へと視線をやる。そして人影に気付いて善吉の方を叩いた。
「ほらほら、あっちの男にも聞かなきゃまずいんじゃねえか?」
 馴れ馴れしい将守の言い方が癪に障る善吉だったが、ひとしきり震えるとまた大声で怒鳴る。
「言われなくても行ってくるってんだ!」
 長屋から出てきた中年の男に善吉が八つ当たりし始めるのを目の端に留めつつ、将守は別の場所に視線を移した。
 将守の視線の先は井戸。水は生活をする上では必ず必要なものである。この時代、長屋には必ず井戸があり、井戸は庶民の情報交換の場でもあった。その名残が今に『井戸端会議』の言葉だけを残している。
 人はいない。そう判じようとして将守は再び長谷川の方に目をやったが、何か違和感を感じて眉を寄せた。
 ――人はいなかった、はずだ。
 将守には人の気配は感じられなかった。しかし、視線を再び井戸に移せば、そこに人影が確かにある。
 人影と判別できるのは、影が人のシルエットでもって動いているせいだ。それ以外――音、気配――からは何も無いようにしか思えない。
「これは随分と」
 将守は声を押し殺して笑った。
 忍並みの気配の薄さは、逆に目立つ。忍だとて、『気配を完全に消す』事は夜以外はしない。それを日中に堂々とやってのけるのは、忍ではない事の証左。だが、人影の気配の薄さは忍以外には出せるような代物ではない。
 井戸の近くにいたのは、まだ若い男だった。
 涼しげな紺の着流しを綺麗に着て、切りそろえられた髪を高い位置で白の紐で結ってある
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