生兵法 3
村外れの平原。
大粒の雪が舞い散る中、青年と編笠の女は対峙した。身じろぎもせずに視線をぶつけ合う両者。
つと雪の降る様が激しくなり、雪片が二人の頭へ、肩へと積もっていく。
体温が急速に奪われる上に、降りしきる大雪で視界は無に等しくなる。
長引けば共倒れになるだろう。
速戦即決が求められる中、白い闇に乗じ、青年はゆっくりと膝を撓め、地摺りの正眼に構えようとする。
それだけの動きで体に積もった雪がパラパラと落ちていく。
(一歩先さえ見えやしないのなら、相手も先程のような身ごなしは出せないはず。
剣尖を前に伸ばし、先を探りながら行くまでだ。切先が触れさえすれば、俺の剣を躱すことなど出来るはずがない)
算段を固め、低い姿勢のまま一歩踏み出す。足元の積雪が踏みしだかれる微かな音は、降る雪に吸収されて当人の耳にさえ届かない。
が、突如、四方八方から雪交じりの強風が彼の身に吹き付ける。
瞬間、世界が変転した。
何もかもが一変してしまえば、逆に変化が判らない。
青年を襲った惑乱と、彼を取り巻く光景を簡潔に表すとすればこれ以外にはないだろう。
最初に気づいたのは、雪が止んだ、ということだった。空から落ちる月の光が地面を覆う雪に反射し、眩しさに青年の目を晦ませる。
ややあって細く瞼を開いた彼はふと違和感を覚える。彼の周囲に半径十数歩の円を描き、雪上に浅い足跡が刻まれている。
いや、それより、なぜ眩しいのだろう?
雪が止んだところで、今夜は満天の雲で暗闇が広がっているはずなのだ。十数歩先など見えるはずもない。
天を仰いだ青年は絶句した。空一面に拡がっていた雪雲が、頭上にだけポッカリと真円状の穴を開いている。そこから皓々と月の光が降り注いでいたのだ。
この光景に言い知れぬ恐怖に駆られる青年、その体から脂汗がジワリ、と浮かび、服全体にまで染み渡る。
気が付けば、青年の衣服は人体の急所の真上だけにいくつもの風穴が開けられていた。なのに肌には傷一つ無い。
愕然として、編笠の女を視線だけで探し求める青年。
彼女は対峙の始めに居た地点から未だ身じろぎもせず立っているように見えた。
――もし、彼女の体に降り積もっていたはずの雪が残っていれば、そして手に漆黒の長短双剣を提げていなければの話であるが。
漸く彼は知った。
雪を払い、雲を穿ったのは彼女が振るう比類なき神剣の為した業であったことを。
目にも留まらず、耳にも聞こえぬ程の速度で、弾指の間にも満たぬ刹那に数十手もの刺突を繰り出し、その全てが数枚の布を突き破るだけに留められるとは、もはや人間の為し得る領域を遥かに超えていた。
「判った? 無駄だらけの動きを誇るなら、せめてこれくらいやってみせなきゃ。」
女の見下したような言葉に、彼は恥じて顔を俯かせた。編笠の女は、青年など及びもつかぬ武芸の達人であった。
が、青年はまだ剣を納めようとはしなかった。これまで持ち続けていた自負故の虚栄心が、未だ負けを認めようとはしなかったのだ。
歯を食いしばり、前を見据える。一心に剣を突き出し、玉砕するまで。千に一つ、万に一つの確率でも相手を刺すという可能性さえ掴めるのならば、この誇りは取り戻せるだろう。
いよいよ捨身の刺突が放たれる、剣身が幽かに揺れた瞬間、編笠の裏から含み笑いが洩れた。
初めは小さく、徐々に笑い声は大きく広がっていく。
機先を制された。気すら込められていない笑いが、青年の動きを封じ込めた。
全身全霊を賭しての業が、唯の一笑に気を逸らされた。
剣は振るわれる前に破られたのである。
青年は剣を取り落とした。己は編笠の女には遠く及ばない。永遠に勝負になどならないだろう。
これほどの高手を前にして、二度と剣を語れようか。彼の誇りは千々に砕け、もはや戻らない。
「俺の……負けだ!」
「ええ」
振り絞るように放った言葉に、女は軽く肯き、双剣を鞘に納める。
「もはや、俺は剣など振るえない。横行する日々は今日でお仕舞だ……!」
青年は、剣を捨てることを決めた。自分は井の中の蛙に過ぎなかった。
世界にはこれほどの使い手がいる、無頼な生き方などとても出来はしない。二度と人を傷つけず、隠棲するしかない。
彼は、そう考えた。だが、
「そうね、今日で終わりよ。だって、あなたに訪れる明日なんてないんだもの」
女の言葉に、青年は目を剥いた。敗北を認めた相手を、彼女は斬るというのか?
これまでの行為は許されないというのか? 当惑する青年に編笠の女は顔を向け、
「別にあなたの態度なんて、してきたことなんてどうでもいいの。
ただ、一年前に誓いを立てただけ。『私に殺し合いを挑んだ者は絶対に生かしておかない』ってね。
これまでの立ち合いは、あなたに身の程を教えてあげるためのサービスでしかないわ。
ほら、剣を拾いなさい。抵抗もしない相手なんて斬りたくもないもの」
青年は絶句し、次いで吼えた。追い詰められた獣さながらの慟哭であった。
剣を拾い、一刺を放った彼であったが、その太刀筋は明らかに精彩を欠いた。
彼自身理解していた、己がつい先ほどまで溢れんばかりに持っていた自負を完膚なきまでに打ち砕かれたことを。
そして、眼前にある女へと恐懼してしまっていることを。
自身への価値を見失った瞬間、人は真にその価値を喪失する。曾ては江湖を横行するに足りた剣速が、一時にして人後に落ちる刺突へと変貌していた。
編笠の内で、失笑が漏れた。女は剥き出しの手を差し伸べ、揃えた指先で軽く剣身を払う。
ただそれだけの、むしろ緩やかとさえ言えるほどの動作で剣先は鮮やかに切断された。
そして、翻った二指が斬られた剣尖を軽やかに掬い取り、一閃。
魂消る絶叫。
擲たれた剣尖は凄まじい速度で額へと食い込む。若者の命を絶つに充分な一撃であった。
死者の手はそのまま暫し進み、やがて止まって力なく垂れていく。
黒土へと落下した断剣の先は、丁度深編笠の表面に触れるか触れないか、といったところにまで迫っていた。
「折られてなければ切先は眉間を割ってたはずね。もう少し大切に剣を使っていれば、こうならなかったかもしれないのに」
編笠の女は感情をそぎ落としたような呟きを残し、宿への道を取る。
上空では雲が流れ、青年の屍骸へと再び雪を降らせる。
雪の一片は小さくなり、積もる速度も緩やかになった。
明日はきっと晴れるだろう。
大粒の雪が舞い散る中、青年と編笠の女は対峙した。身じろぎもせずに視線をぶつけ合う両者。
つと雪の降る様が激しくなり、雪片が二人の頭へ、肩へと積もっていく。
体温が急速に奪われる上に、降りしきる大雪で視界は無に等しくなる。
長引けば共倒れになるだろう。
速戦即決が求められる中、白い闇に乗じ、青年はゆっくりと膝を撓め、地摺りの正眼に構えようとする。
それだけの動きで体に積もった雪がパラパラと落ちていく。
(一歩先さえ見えやしないのなら、相手も先程のような身ごなしは出せないはず。
剣尖を前に伸ばし、先を探りながら行くまでだ。切先が触れさえすれば、俺の剣を躱すことなど出来るはずがない)
算段を固め、低い姿勢のまま一歩踏み出す。足元の積雪が踏みしだかれる微かな音は、降る雪に吸収されて当人の耳にさえ届かない。
が、突如、四方八方から雪交じりの強風が彼の身に吹き付ける。
瞬間、世界が変転した。
何もかもが一変してしまえば、逆に変化が判らない。
青年を襲った惑乱と、彼を取り巻く光景を簡潔に表すとすればこれ以外にはないだろう。
最初に気づいたのは、雪が止んだ、ということだった。空から落ちる月の光が地面を覆う雪に反射し、眩しさに青年の目を晦ませる。
ややあって細く瞼を開いた彼はふと違和感を覚える。彼の周囲に半径十数歩の円を描き、雪上に浅い足跡が刻まれている。
いや、それより、なぜ眩しいのだろう?
雪が止んだところで、今夜は満天の雲で暗闇が広がっているはずなのだ。十数歩先など見えるはずもない。
天を仰いだ青年は絶句した。空一面に拡がっていた雪雲が、頭上にだけポッカリと真円状の穴を開いている。そこから皓々と月の光が降り注いでいたのだ。
この光景に言い知れぬ恐怖に駆られる青年、その体から脂汗がジワリ、と浮かび、服全体にまで染み渡る。
気が付けば、青年の衣服は人体の急所の真上だけにいくつもの風穴が開けられていた。なのに肌には傷一つ無い。
愕然として、編笠の女を視線だけで探し求める青年。
彼女は対峙の始めに居た地点から未だ身じろぎもせず立っているように見えた。
――もし、彼女の体に降り積もっていたはずの雪が残っていれば、そして手に漆黒の長短双剣を提げていなければの話であるが。
漸く彼は知った。
雪を払い、雲を穿ったのは彼女が振るう比類なき神剣の為した業であったことを。
目にも留まらず、耳にも聞こえぬ程の速度で、弾指の間にも満たぬ刹那に数十手もの刺突を繰り出し、その全てが数枚の布を突き破るだけに留められるとは、もはや人間の為し得る領域を遥かに超えていた。
「判った? 無駄だらけの動きを誇るなら、せめてこれくらいやってみせなきゃ。」
女の見下したような言葉に、彼は恥じて顔を俯かせた。編笠の女は、青年など及びもつかぬ武芸の達人であった。
が、青年はまだ剣を納めようとはしなかった。これまで持ち続けていた自負故の虚栄心が、未だ負けを認めようとはしなかったのだ。
歯を食いしばり、前を見据える。一心に剣を突き出し、玉砕するまで。千に一つ、万に一つの確率でも相手を刺すという可能性さえ掴めるのならば、この誇りは取り戻せるだろう。
いよいよ捨身の刺突が放たれる、剣身が幽かに揺れた瞬間、編笠の裏から含み笑いが洩れた。
初めは小さく、徐々に笑い声は大きく広がっていく。
機先を制された。気すら込められていない笑いが、青年の動きを封じ込めた。
全身全霊を賭しての業が、唯の一笑に気を逸らされた。
剣は振るわれる前に破られたのである。
青年は剣を取り落とした。己は編笠の女には遠く及ばない。永遠に勝負になどならないだろう。
これほどの高手を前にして、二度と剣を語れようか。彼の誇りは千々に砕け、もはや戻らない。
「俺の……負けだ!」
「ええ」
振り絞るように放った言葉に、女は軽く肯き、双剣を鞘に納める。
「もはや、俺は剣など振るえない。横行する日々は今日でお仕舞だ……!」
青年は、剣を捨てることを決めた。自分は井の中の蛙に過ぎなかった。
世界にはこれほどの使い手がいる、無頼な生き方などとても出来はしない。二度と人を傷つけず、隠棲するしかない。
彼は、そう考えた。だが、
「そうね、今日で終わりよ。だって、あなたに訪れる明日なんてないんだもの」
女の言葉に、青年は目を剥いた。敗北を認めた相手を、彼女は斬るというのか?
これまでの行為は許されないというのか? 当惑する青年に編笠の女は顔を向け、
「別にあなたの態度なんて、してきたことなんてどうでもいいの。
ただ、一年前に誓いを立てただけ。『私に殺し合いを挑んだ者は絶対に生かしておかない』ってね。
これまでの立ち合いは、あなたに身の程を教えてあげるためのサービスでしかないわ。
ほら、剣を拾いなさい。抵抗もしない相手なんて斬りたくもないもの」
青年は絶句し、次いで吼えた。追い詰められた獣さながらの慟哭であった。
剣を拾い、一刺を放った彼であったが、その太刀筋は明らかに精彩を欠いた。
彼自身理解していた、己がつい先ほどまで溢れんばかりに持っていた自負を完膚なきまでに打ち砕かれたことを。
そして、眼前にある女へと恐懼してしまっていることを。
自身への価値を見失った瞬間、人は真にその価値を喪失する。曾ては江湖を横行するに足りた剣速が、一時にして人後に落ちる刺突へと変貌していた。
編笠の内で、失笑が漏れた。女は剥き出しの手を差し伸べ、揃えた指先で軽く剣身を払う。
ただそれだけの、むしろ緩やかとさえ言えるほどの動作で剣先は鮮やかに切断された。
そして、翻った二指が斬られた剣尖を軽やかに掬い取り、一閃。
魂消る絶叫。
擲たれた剣尖は凄まじい速度で額へと食い込む。若者の命を絶つに充分な一撃であった。
死者の手はそのまま暫し進み、やがて止まって力なく垂れていく。
黒土へと落下した断剣の先は、丁度深編笠の表面に触れるか触れないか、といったところにまで迫っていた。
「折られてなければ切先は眉間を割ってたはずね。もう少し大切に剣を使っていれば、こうならなかったかもしれないのに」
編笠の女は感情をそぎ落としたような呟きを残し、宿への道を取る。
上空では雲が流れ、青年の屍骸へと再び雪を降らせる。
雪の一片は小さくなり、積もる速度も緩やかになった。
明日はきっと晴れるだろう。
■作者メッセージ
以上を持ちまして、『生兵法』の話は終了いたします。
さて、この物語での「生兵法」な人間は一体誰だったのでしょうか?
青年でしょうか、それとも黒髭でしょうか?
私は、実のところ編笠の女も含めた武芸者全員だと考えます。
なお、この作品は以前GAYMテイルズ板で書いていた作品の終わり方の一つの可能性からおよそ1年後が舞台となっております。
だいたい、TOS本編とラタトスクの間くらいで、舞台はオサ山道西側の架空の農村です。
編笠の女が誰かについては、拙作が未完であった以上、後悔が間に合わなかったか執筆しきれなかった部位のプロットを見たことのある一部の知人ならば予想が出来るとは思いますが、どうかそれは言わないことにしてください。
さて、この物語での「生兵法」な人間は一体誰だったのでしょうか?
青年でしょうか、それとも黒髭でしょうか?
私は、実のところ編笠の女も含めた武芸者全員だと考えます。
なお、この作品は以前GAYMテイルズ板で書いていた作品の終わり方の一つの可能性からおよそ1年後が舞台となっております。
だいたい、TOS本編とラタトスクの間くらいで、舞台はオサ山道西側の架空の農村です。
編笠の女が誰かについては、拙作が未完であった以上、後悔が間に合わなかったか執筆しきれなかった部位のプロットを見たことのある一部の知人ならば予想が出来るとは思いますが、どうかそれは言わないことにしてください。