道半ばの恋
「本当の愛というのは、空気のようなものだと思うの」
「はい?」
部室に入った矢先に妙なことを言われ、僕は思わず聞き返した。
柳先輩は、僕の間抜けた返答を聞いていなかったのか、それとも初めから答えなど期待していなかったのか、涼しい顔で中島敦の小説を読んでいる。薄暗い写真部の部室でよくまあ小説なんぞ読めるものだと、僕は妙なところで感心した。
「いったい、どういう意味なんです?」
「言った通りでしかないわ。本当の恋愛って、空気のように気にならなくって、それでいてもはや無くては生きられないものなんじゃないかしら、ってこと」
柳先輩は本から顔を上げようともしない。こんな風変わりな人だから、大学一の美人と誰もが認めながら、浮いた噂一つ聞いたことがないんだ。
「そういうもんなんですかねぇ」
「そういうものよ」
「…………」
「……………………」
沈黙、僕にとってはなんとなく気まずく、柳先輩にとっては意に介する価値もなさげな時間。それを破ったのは、暗室の扉がガチャリと開く音と、
「ああくそっ、うまくいかねぇなぁ!」
頭をボリボリ掻きながら出てきた衛先輩の騒がしい声だった。
「あら、また満足のいかない写真だったの?」
「“また”、ってなんだよ。“また”、って。それじゃまるで俺が全くダメなカメラマンみたいじゃないか!」
笑顔ひとつ見せない柳先輩と、大げさに騒ぎ立てる衛先輩のやり取りを耳の端で聞き流し、僕は腰を下ろした。写真部に入って半年、もう慣れたいつもの光景だから今更気にもならない。
(それにしても、相変わらず仲がいいのか悪いのか。気まずい雰囲気よりはいいんだけどさ)
そんな風に思っていた僕は、まさか帰路に二人が付き合っている、とのメールを友人からもらうことになるなどとはこのとき考えもしなかった。
**
それから数年、僕は人生のどん詰まりに立たされていた。大学で東洋史を学ぶことにしたのは単純に好きだったからだが、いざ就職の時期になるとこれが全く飯のタネになりはしなかった。就職活動は立て続けに面接で落とされ、僕はすっかり気を重くしていた。自嘲するよりほか笑いも出ず、迫りくる卒論の期限と、どうにもならないほどの就活で、十分なバイトも出来ずにいて、金に詰まった僕はいつも腹をすかしていた。
そんな時、どこから僕の苦境を聞きつけたのか、柳先輩から食事のお誘いのメールが来た。卒業した彼女は今、カメラマンとして働く衛先輩と同棲していて、結婚も間近だと聞いていたから、お二人のご厚意だろうか、と思って僕はいそいそと招きに応じた。応じたのだが、
「……あの、衛先輩は?」
「編集局に行っているわ。まあ、今夜中には戻ってくるんじゃないかしら」
僕は気まずさの中で座っていた。まさか、柳先輩単独のお誘いで、しかも衛先輩が出払っているとは思ってもみなかった。
「……柳先輩、これって不味いことだと思うんですけど。若い美人と、男が、家主の留守に二人っきりって」
「何が不味いの? 衛はわかってくれるし、私には何もやましいことはないのよ?」
「いや、世間体というものが……」
「金欠の後輩に先輩がご飯をおごるのをあれこれ言う世間なんて気にする必要あるの? 私は私、あなたはあなた、衛は衛。恥じる必要がないのに、ずいぶんつまらないことを考えるのね」
柳先輩の奇人っぷりには磨きがかかっていた。僕は閉口しながら夕飯をごちそうになったが、味などちっとも判別がつかなかった。そのくせ、量はたっぷりあり、なかなか食事が終わらない。そうこうするうち、玄関の鍵が開く音がし、
「ただいま! あれ? お前、来てたのか」
「は、はひっ! お、お邪魔してまひゅっ!」
意外そうな顔を向けてくる衛先輩に、僕はどもりながら、絞り出すように返事をするのがやっとであった。
衛先輩も加わっての三人での食事もようやく終わり、柳先輩が後片付けに立つ中、僕は帰宅の準備をしつつ、衛先輩に問いかけずにはいられなかった。
「衛先輩、先輩は、疑ったりしないんですか?」
「疑う?」
衛先輩はしばし目を見張って、首をかしげていたが、やがて、
「そういや、そんなこと考えもしなかったな」
と、自分でも不思議そうに答えた。
「いや、あいつは、何をやるにせよ自然なんだよ。なんつーか、さ。同棲してからも、あいつに家事全般こなしてもらってるのに、何故か一人暮らししている時の感覚が抜けねぇんだわ。変なのかもしれねぇけど、『本当の愛というのは、空気のようなもの』ってあいつが言ってたのはこういうことなのかもな。そんなことより」
――あいつと居れば、俺は最高の写真を撮る方法がつかめる気がするんだよ
と、不意に照れたような顔で衛先輩は話を止めた。
「どういうことです?」
「どうもこうもねぇよ。あいつと一緒にいても、別に気にならないし何の手ごたえもない。なのにあいつがいないと物寂しい。そんな押しつけがましさのない自然さと暮らしてきて、あいつの息遣いを自分のものにできれば、俺はいつか撮れる気がするんだよ。あいつの雰囲気みたいな写真を、よ」
家路の途中で、僕は何とはなしに衛先輩をうらやましく思った。あれほど愛されていて、なお写真への求道に身を捧げられるその一途さに、である。思えば、僕にはそれが足りないからうまくいかないのだろう。
**
衛先輩が、死んだ。中東の戦争に戦場カメラマンとして出向中、流れ弾に当たったらしい。死に顔は先輩らしい爽やかな笑顔であったようだが、生憎カメラはひどく壊れていて、フィルムは完全にダメになっていた、と聞いた。
僕はあわただしく休暇を取って、衛先輩の葬式に出たが、驚いたことに柳先輩は葬式の間一度も悲しい顔にならず、涙も流すことはなかった。親戚や知人にずいぶん責められていたが、生まれたばかりの赤ん坊をあやしながら、彼女は随分と平然としていた。
たまりかねた僕は聞いた。
「なぜ、嘆かないんですか? 先輩は、赤ん坊を抱えて一人ぼっちになってしまったじゃないですか!」
柳先輩は、小首をかしげもせず、まるで1+1=2、と言うかのようなわかりきったことを説くような平静さで答えた。
「どうして嘆く必要があるの? たとえ何処にいようと、幽明境を異にすることになっても、あの人と私は常に一緒なのに。ここで、ね」
と、彼女は胸に手を置き、
「それに、あの人は笑顔で逝ったのよ。きっと、自身の満足する最高の画像をファインダーに収めて、シャッターを切ったのだから、あの人にとっては至高の幕切れだったはずよ。なのに、なんであなたたちは笑顔で夫を送り出してくれないのかしら?」
僕は、答えることができなかった。帰る途中、気が付かぬ間に僕はこう呟いていた。
――衛先輩、あんた幸せ者だよ。あんなに愛されて、夢も叶えられて。
「はい?」
部室に入った矢先に妙なことを言われ、僕は思わず聞き返した。
柳先輩は、僕の間抜けた返答を聞いていなかったのか、それとも初めから答えなど期待していなかったのか、涼しい顔で中島敦の小説を読んでいる。薄暗い写真部の部室でよくまあ小説なんぞ読めるものだと、僕は妙なところで感心した。
「いったい、どういう意味なんです?」
「言った通りでしかないわ。本当の恋愛って、空気のように気にならなくって、それでいてもはや無くては生きられないものなんじゃないかしら、ってこと」
柳先輩は本から顔を上げようともしない。こんな風変わりな人だから、大学一の美人と誰もが認めながら、浮いた噂一つ聞いたことがないんだ。
「そういうもんなんですかねぇ」
「そういうものよ」
「…………」
「……………………」
沈黙、僕にとってはなんとなく気まずく、柳先輩にとっては意に介する価値もなさげな時間。それを破ったのは、暗室の扉がガチャリと開く音と、
「ああくそっ、うまくいかねぇなぁ!」
頭をボリボリ掻きながら出てきた衛先輩の騒がしい声だった。
「あら、また満足のいかない写真だったの?」
「“また”、ってなんだよ。“また”、って。それじゃまるで俺が全くダメなカメラマンみたいじゃないか!」
笑顔ひとつ見せない柳先輩と、大げさに騒ぎ立てる衛先輩のやり取りを耳の端で聞き流し、僕は腰を下ろした。写真部に入って半年、もう慣れたいつもの光景だから今更気にもならない。
(それにしても、相変わらず仲がいいのか悪いのか。気まずい雰囲気よりはいいんだけどさ)
そんな風に思っていた僕は、まさか帰路に二人が付き合っている、とのメールを友人からもらうことになるなどとはこのとき考えもしなかった。
**
それから数年、僕は人生のどん詰まりに立たされていた。大学で東洋史を学ぶことにしたのは単純に好きだったからだが、いざ就職の時期になるとこれが全く飯のタネになりはしなかった。就職活動は立て続けに面接で落とされ、僕はすっかり気を重くしていた。自嘲するよりほか笑いも出ず、迫りくる卒論の期限と、どうにもならないほどの就活で、十分なバイトも出来ずにいて、金に詰まった僕はいつも腹をすかしていた。
そんな時、どこから僕の苦境を聞きつけたのか、柳先輩から食事のお誘いのメールが来た。卒業した彼女は今、カメラマンとして働く衛先輩と同棲していて、結婚も間近だと聞いていたから、お二人のご厚意だろうか、と思って僕はいそいそと招きに応じた。応じたのだが、
「……あの、衛先輩は?」
「編集局に行っているわ。まあ、今夜中には戻ってくるんじゃないかしら」
僕は気まずさの中で座っていた。まさか、柳先輩単独のお誘いで、しかも衛先輩が出払っているとは思ってもみなかった。
「……柳先輩、これって不味いことだと思うんですけど。若い美人と、男が、家主の留守に二人っきりって」
「何が不味いの? 衛はわかってくれるし、私には何もやましいことはないのよ?」
「いや、世間体というものが……」
「金欠の後輩に先輩がご飯をおごるのをあれこれ言う世間なんて気にする必要あるの? 私は私、あなたはあなた、衛は衛。恥じる必要がないのに、ずいぶんつまらないことを考えるのね」
柳先輩の奇人っぷりには磨きがかかっていた。僕は閉口しながら夕飯をごちそうになったが、味などちっとも判別がつかなかった。そのくせ、量はたっぷりあり、なかなか食事が終わらない。そうこうするうち、玄関の鍵が開く音がし、
「ただいま! あれ? お前、来てたのか」
「は、はひっ! お、お邪魔してまひゅっ!」
意外そうな顔を向けてくる衛先輩に、僕はどもりながら、絞り出すように返事をするのがやっとであった。
衛先輩も加わっての三人での食事もようやく終わり、柳先輩が後片付けに立つ中、僕は帰宅の準備をしつつ、衛先輩に問いかけずにはいられなかった。
「衛先輩、先輩は、疑ったりしないんですか?」
「疑う?」
衛先輩はしばし目を見張って、首をかしげていたが、やがて、
「そういや、そんなこと考えもしなかったな」
と、自分でも不思議そうに答えた。
「いや、あいつは、何をやるにせよ自然なんだよ。なんつーか、さ。同棲してからも、あいつに家事全般こなしてもらってるのに、何故か一人暮らししている時の感覚が抜けねぇんだわ。変なのかもしれねぇけど、『本当の愛というのは、空気のようなもの』ってあいつが言ってたのはこういうことなのかもな。そんなことより」
――あいつと居れば、俺は最高の写真を撮る方法がつかめる気がするんだよ
と、不意に照れたような顔で衛先輩は話を止めた。
「どういうことです?」
「どうもこうもねぇよ。あいつと一緒にいても、別に気にならないし何の手ごたえもない。なのにあいつがいないと物寂しい。そんな押しつけがましさのない自然さと暮らしてきて、あいつの息遣いを自分のものにできれば、俺はいつか撮れる気がするんだよ。あいつの雰囲気みたいな写真を、よ」
家路の途中で、僕は何とはなしに衛先輩をうらやましく思った。あれほど愛されていて、なお写真への求道に身を捧げられるその一途さに、である。思えば、僕にはそれが足りないからうまくいかないのだろう。
**
衛先輩が、死んだ。中東の戦争に戦場カメラマンとして出向中、流れ弾に当たったらしい。死に顔は先輩らしい爽やかな笑顔であったようだが、生憎カメラはひどく壊れていて、フィルムは完全にダメになっていた、と聞いた。
僕はあわただしく休暇を取って、衛先輩の葬式に出たが、驚いたことに柳先輩は葬式の間一度も悲しい顔にならず、涙も流すことはなかった。親戚や知人にずいぶん責められていたが、生まれたばかりの赤ん坊をあやしながら、彼女は随分と平然としていた。
たまりかねた僕は聞いた。
「なぜ、嘆かないんですか? 先輩は、赤ん坊を抱えて一人ぼっちになってしまったじゃないですか!」
柳先輩は、小首をかしげもせず、まるで1+1=2、と言うかのようなわかりきったことを説くような平静さで答えた。
「どうして嘆く必要があるの? たとえ何処にいようと、幽明境を異にすることになっても、あの人と私は常に一緒なのに。ここで、ね」
と、彼女は胸に手を置き、
「それに、あの人は笑顔で逝ったのよ。きっと、自身の満足する最高の画像をファインダーに収めて、シャッターを切ったのだから、あの人にとっては至高の幕切れだったはずよ。なのに、なんであなたたちは笑顔で夫を送り出してくれないのかしら?」
僕は、答えることができなかった。帰る途中、気が付かぬ間に僕はこう呟いていた。
――衛先輩、あんた幸せ者だよ。あんなに愛されて、夢も叶えられて。
■作者メッセージ
この作品は、ちよ様にクリスマスプレゼントとして送った作品を手直ししたものです。
今回の作品は、中島敦の『名人伝』を読んだ直後に、冒頭の一セリフが浮かんだことから生まれました。
しかし、私自身が思うに、この話に描かれる愛というものはまだまだ至純の域に達していないのではないでしょうか。本当にこの夫婦の愛が極まっていたのであれば、胸の中にいるなどとわざわざ言う必要も、ましてやそのような考えなど初めから思いつきもしなかったでしょうから。
今回の作品は、中島敦の『名人伝』を読んだ直後に、冒頭の一セリフが浮かんだことから生まれました。
しかし、私自身が思うに、この話に描かれる愛というものはまだまだ至純の域に達していないのではないでしょうか。本当にこの夫婦の愛が極まっていたのであれば、胸の中にいるなどとわざわざ言う必要も、ましてやそのような考えなど初めから思いつきもしなかったでしょうから。