壱
「殺生石?」
男は適当に髪を結いながら座敷の中心にいる人物に問う。
まだ若い男は黒の着物の上に黄色の袈裟を引っ掛けているような格好だった。袈裟をかけている事から一応は僧侶である事は確かなのだが、剃髪していない事から破戒僧と見て取れる。
もう一方の人物はより重厚な袈裟を着た坊主であった。位はかなり高いのだろう、その姿からは威厳が見て取れる。
老僧は静かに若い男に頷いた。それに男は苦笑いを浮かべる。
「那須野にある、アレか? それとも、狐の残したアレか?」
「前者であれば貴様になぞ頼まぬ」
「なるほど、非常に厄介だな」
手をパタパタと振ってため息をつくと、男は障子を開いた。廊下の先には綺麗に整備された庭園が広がる。暖かい陽光に男は昼寝の猫よろしく体を伸ばした。その男の様子に老僧は苦笑いをこぼし、されど冷たい声音で続ける。
「貴様を動かすのはこちらも痛いがな。殺生石を野放しにしては結界の土台が危うい」
その言葉に、男は顔を少ししかめて老僧を見やった。
「俺もその土台の一つのはずだが?」
問い返す男に、老僧は堪えきれずに笑う。その反応に、さらに男の顔がしかめられた。
「貴様は親父殿が最も厳重に封じた土台だ。それが崩れる等ありえぬ」
自信の見て取れる老僧の言葉に、男は不機嫌そうに息をついた。そして嫌味たっぷりに男は老僧を睨む。
「ったく、このバカ親子め」
「これが貴様の弟だ。諦めろ」
「嫌だねぇ、こんな身内だけってのは」
手をひらひらとさせて男は廊下へと足を踏み出した。視線だけで老僧はそれを追うと、最後とばかりに釘を刺す。
「将守、殺生石は必ず消せ」
「あい承って候、南光坊天海殿」
そのまま庭へと踏み出すと、男は一つ地を蹴った。それだけで、男の姿は老僧からは視認できなくなる。
風の音を聞くように老僧がゆっくりと目を伏せる。
物思いにふけっている様子を見せてから数秒たったあたりで、老僧は突如目を見開いた。そしてその視線をキョロキョロとさせたかと思うと誰にでもなく呟く。
「はて、儂は何をしておったか」
江戸の町には多くの長屋が乱立している。今で言うアパートにあたるそれは、庶民の生活の場である。
そして、庶民の一日は太陽と共に始まり、太陽と共に終わる。日が昇れば人々は動き出し、日が沈めば床に就くというある意味で非常に健康的な生活だ。もちろん、その分日が出ている間は働きづめになるのが普通だ。
されど、この部屋の主はそういう世界とはほどほどに無縁だった。
日に照らされない生活なのがよくわかる青白い肌、漆黒の髪は切りそろえられているものの、武士とは違って剃られていない。
まだ若い青年は戸をガンガン叩く音に気付いて目をこする。黒く愛らしい瞳が戸を見てみれば、そこには女性らしきシルエット。
青年ははだけた寝巻きを適当に調えて戸の突っ張り棒を取ってやる。すると、勢いよく戸が開かれた。妙齢の、赤い着物の女がそこにいた。
「よるさん、よるさん」
慌てた様子の女性に、青年――朔夜(さくや)は首をかしげた。
「お凛さん……もう朝ですっけ?」
「何寝ぼけてるんだい、よるさん! もう昼四つだよ」
「そんな時間でしたか」
のんびりと頷いて朔夜は笑った。
昼四つと言うのは大体今の時刻で言えば十時頃になる。眠りすぎと言えば眠りすぎだった。
朔夜のそのあまりのとろさに、お凛の中の何かがぷつりと切れた。
「そんなんだから嫁が来ないんだよ! まったく! 今度良い子を紹介してやるからね」
「いや、そんな事はどうでも良いんで……」
「どうでも良くない!」
お凛の勢いに気圧されながらも、朔夜は笑顔で問い返した。
「いや、何か用があったんでは?」
その言葉に我に返ったお凛は手を一つ打つ。
「ああ、忘れちまう所だったよ。向かいの長屋の八助さんが今朝亡くなったらしくてねぇ」
「え……八助さんが?」
その言葉に、朔夜の脳裏に気の良い笑顔が浮かんだ。彼の中には、家族三人で楽しげに笑う一家の姿だけが残っている。その記憶の中の八助は、年老いている訳ではなかった。
「まだ小さな子供もいて不憫なこったよ」
哀れむようにお凛が目を伏せる。
朔夜はお凛の脇から見える風景に目をやった。葬式の準備のためだろう、人が忙しなく動いている。
「急な病かい?」
「いや、隅田川で死んでるのが見つかったらしいよ。殺しかもしれないからって火盗改めまで来てる始末さ」
「八丁堀が……」
お凛の言葉に、朔夜は視線を足元に移した。
火盗改めとは『火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)』の略称である。今の時代で言えば警察兼裁判官にあたる。火盗改めは必要とあらばその場で罪人の首をはねても良いと言う権限を持たされていた。故に、庶民からは頼られもし、恐れられもする存在である。八丁堀に幕府直轄の同心や与力といった侍が集められたため、通称が八丁堀となっている。
「どうしたんだい、よるさん」
朔夜の様子の変化に気付いたお凛が朔夜の肩をゆすった。顔を上げた朔夜は目に見えて青くなっていた。
「い、いや……八助さんだけが亡くなったんですよね」
その言葉に、お凛は言いにくそうに頷いた。
「ああ。お千代ちゃんや吉之助は無事だったみたいだよ」
残されたのは妻と子どもだけ。その状況に、朔夜は頭痛に顔を歪めた。
――違う、私は……確かに守られた。一人じゃなかった。
頭を振り、遠い記憶を振り払って朔夜は「そうですか」とお凛の言葉に返した。
「それよりも」
唐突に肩を揺らされて、朔夜は目を見開いた。お凛の笑顔に、黒いものが見える。
「ここの長屋は男手が少ないんだ。よるさん、きっちり働いてもらうからね」
「……はい」
有無を言わさぬ迫力のお凛に、朔夜は力なく頷いた。
茶屋から一人の侍が出てきた。二本ざしに黒い公儀の着物を着た男の姿は、出で立ちからして同心のソレだった。
彼が向かうはにぎわう両国の橋の下。すでに野次馬で一杯になった場所とは少し離れた小屋に向かう。
寂れた小屋に短く「長谷川だ」と名乗って入ると、中には竹莚を被せられた影と、岡っ引きが一人いた。
岡っ引きは男――長谷川に気付くと、長谷川の目を見て頷いた。
「同じ手口ですぜ、旦那」
岡っ引きの言葉に、思わず長谷川から舌打ちがもれる。
「これで三件目か」
頭が痛くなるのを押さえるために、手を頭にやった長谷川だったが、さらに頭を痛くさせるような声を聞いた。
「何が三件目なんだ?」
気配を感じさせずに現れた人物に、岡っ引きが十手をすぐさま取り出す。それを長谷川が手で止めると、長谷川は声の方を振り返った。
黒い着物に黄色の袈裟、僧侶の姿をした若い男だった。されど、決して僧侶ではない。髪を長く伸ばし、後ろで簡単にくくっている。髪を伸ばし、酒を飲み、女を抱く破戒僧だ。
うんざりとしながら、長谷川は男を招きいれた。それに男は無遠慮に中に入っていく。
「性懲りも無くまた現れたか、将守」
破戒僧――将守に長谷川はため息をついた。これが初対面ではないらしい。
その言葉に、将守は楽しげに笑って見せた。
「首突っ込むのが庶民の嗜みだろ?」
「庶民はわざわざ僧侶の格好なぞせぬ」
「服がこれしかねぇんだ、仕方ねぇだろ」
どんな言葉を返そうとも巫山戯ながら返してくる将守に、長谷川は諦めたように息をつく。
そんな長谷川の事などお構い無しに、将守は竹莚を指差した。
「それで、こいつが今回の仏さんかい?」
「なんならお前が経でも読むか?」
長谷川が将守に嫌味で返すと、将守は苦笑いを浮かべて首を振った。
「御免被るね。俺は俺だけの悪霊に経を読むだけで精一杯」
肩をすくめてそれだけ言う将守は無言で詮索するなと言う。それに気付かぬ長谷川でも無いらしく、長谷川は口を閉じた。
すると一転して将守が長谷川に首を傾げて問う。
「それで、その仏さんみたいに殺されたヤツが他にもいるって話だが――」
「お前に教える理由は無いな」
言葉の途中で間髪入れずに長谷川が否定する。されど、将守は笑った。その笑顔に、薄ら寒いものを長谷川は感じる。
「話してもらわなきゃ困るんだよ、長谷川」
そう言って長谷川にだけ見えるように、書を見せた。裏書に、長谷川は目を瞠る。
「管轄は違うが、コレに関しては俺の方が上の地位だ。教えてもらうぜ」
苦虫を噛み潰したような長谷川の表情に、将守が笑う。岡っ引きだけが事情が分からずに首を捻っていた。
そして長谷川はおもむろに竹莚を足で退けた。
「これを見れば分かろう」
長谷川がそう言って示した場所には、遺体があった。
その顔は苦痛に歪んだまま静止しているが、ただの水死体ではない事を将守も見た瞬間に感づく。水死体にしては、あまりにも小さいのだ。
普通、水死体は最初のうちは水に沈む。しかし腐食が進むと体内にガスが溜まり膨張する。なのに、この死体はその事を考慮すれば小さすぎるのだ。
将守は考えるように口元に手をやると、思わず呟いた。
「洪水で流れ着いた即身仏みてえだな」
「バ、罰当たりな事言うんじゃねぇ!」
あまりと言えばあまりな将守の言葉に、岡っ引きが激昂する。
ちなみに、即身仏と言うのは穴に入れられた坊主がひたすら経を読み、餓死してミイラ化した仏の事を言う。外国から比べればかなりハードな過程を辿るミイラと言えるだろう。
激昂する岡っ引きに将守は驚いたように目を丸めた。
「お。善吉は仏罰なんて信じてんのかぁ? 偉いヤツだなぁ」
「坊主のお前は仏罰を信じろってんだ!」
善吉の言葉を将守は鼻で笑う。
「んなもん怖かないね。現世に干渉できるのは地蔵菩薩だけさ。地蔵さんは悪いヤツには厳しいが、悪さをしてないヤツにはいたって優しい仏さんでな」
指を振り回しながら講釈する将守に、長谷川が笑う。
「会ってきたように言うな」
その言葉に、「お?」と将守が振り返って笑う。
「まあ、生死の境は何度か彷徨ってるからな。で、この死体、誰かはわかってんのか?」
真剣味を帯びた声で問う将守に、静かに長谷川が頷く。
「妻がいてな。確認が取れた。近くの長屋に住む八助と言う大工らしい。可哀想に、まだ小さな子供がいるようだ」
「ふぅん。そりゃ、ご愁傷様なこって」
「でもよ、この仏さん、知り合いに話し聞くと泳ぎが達者らしくってな。とても溺れる様な人間じゃねえのよ」
割り込んできた善吉の言葉に、将守はやはり鼻で笑った。流石に馬鹿にされている事に気づいて、善吉が顔をしかめる。しかし、将守は気にせずに八助だった物に近づくように腰を下ろした。
「まあ、死因が溺死とはあんまり思えない死体だからなぁ。酒飲んでふらふらになって溺れたにしても、こりゃおかしいだろ。で、他二件は?」
「やはりこの近辺でな。呉服問屋の光中屋の丁稚(でっち)で心太、女衒(ぜげん)をやっていた又佐と言う男も似たような状態だった」
言われながら、将守は八助の遺体の手首を触ったり額にあたる部分を小突いたりしている。ひとしきり遺体を触ってから、将守は立ち上がった。それに合わせて長谷川が鋭い目つきで将守を見た。
「何か知っているのなら、こちらもお前に問いたいがな」
殺気を感じて、将守は慌てたように手を振った。
「知ってるわけがねえだろ。俺はさっきこのお役目を頂いたんだからな」
その言葉に長谷川は大人しく殺気をおさめる。これ以上問いただしても無駄である事を察知しての事だ。
そんな長谷川の意図などよくわかっていない善吉は、長谷川に恐る恐る問う。
「旦那、将守の言ってるお役目ってのは何ですかい?」
その善吉の言葉に長谷川が答えるよりも早く、将守が笑った。それに長谷川も思わず将守の方を見る。
「善吉、世の中知らない方がいい事も沢山ある」
言葉の冷たさに思わず二人は口を閉ざした。将守の後ろにある存在を知っている長谷川は余計にその寒さにさらされる。
しかし次の瞬間には一転して楽しげに将守は小屋の戸を開いた。
「で、お前らこれから八助の長屋で聞いてまわるつもりだろ? さっさと行こうぜ」
鼻歌でも歌いだしそうな調子の将守に、長谷川はワンテンポ遅れて大声で怒鳴ってしまった。
「お前も行くのか!?」
「当然」
即返された言葉は、長谷川にとっては全く聞きたく無い言葉だった。
■作者メッセージ
GAYMにて投稿していたオリジの小説です。
江戸時代を舞台にしていますが、ほとんどファンタジーな展開をしますので、歴史に疎い方に楽しんで頂けると嬉しいです。
時代考証的におかしい個所があると思いますが、生温かい目で見守って頂ければ幸いです。
ではでは。続きはまたの機会に。