弐
顔を洗うついでに井戸から水を汲もうと着流し姿で戸を開いた朔夜は、転瞬の間に戸を閉めた。そして慙愧の念に苛まれたのか、彼は顔をしかめる。
外には葬式の準備を手伝う人々に混じって黒い公儀の着物が見えたからだ。
――本当に八丁堀が来ていたのか。
お凛の噂話の真実は良くて六割程度と考えていつも聞いている彼だが、今回の情報はなかなか正確なものだったらしい。
――京の人間よりはマシだが、公儀の人間に目を付けられるのはまずい。
朔夜は一つ息をつくと、戸から見えない位置に移動する。桶と手ぬぐいを片手に、彼は音を立てないように戸を開いた。
葬式用の提灯を片手に、お凛は埃をはたいていた。赤い着物の袖を黄色の紐でくくった彼女は、大して着飾っていないにもかかわらず妙な色がある。彼女自身が遊郭の遊女をやっていた影響と言うものも少なからずあるだろう。しかし、今ではその色よりも逞しさの方に目が行くのは時の流れか。
そんな彼女が提灯を綺麗にし終えると、ふと街道の方から近づいてくる黒い着物に気が付いた。気付いて、彼女は提灯をその辺へ置き去りにして影の方へと走りよる。
「長谷川の旦那じゃないですかい」
嬉しそうに目を細めて、彼女は若い同心に軽く頭を下げる。頬に手をやる仕草は女のそれだった。
それに足を止めて同心――長谷川が目を細める。
「お凛か、久しいな。源三は達者か?」
「もう、達者すぎて困りもんですよぅ」
心底困ったように肩をすくめるお凛の冗談に、長谷川が笑う。その笑顔にお凛の頬に朱がさした。
お凛はそんな自分の変化を長谷川に悟られないように視線を少しずらすと、話題を変えるために長谷川に問う。
「今日はどうしたんですかい?」
お凛の問いに、長谷川はかるく首の後ろをかくと、苦笑いをしつつ口を開いた。
「八助の事についてな」
「あら。さっきまで他の同心方もいらしてたんですよ」
長谷川の言葉にお凛が首を傾げる。
「少々事情があってな。聞かせてはもらえぬか?」
微笑みながら頼む長谷川の顔を見て、お凛の顔がみるみる赤くなっていく。そして彼女は胸を叩いて宣言した。
「旦那のためなら何でも話しますよ」
その姿は非常に男らしかった。
遠巻きにその様子を伺っていた将守はうんざりしたように二人を見ていた。そして脇にいる善吉の腹を肘で小突く。それに二人のやり取りに釘付けになっていた善吉が我に返った。
「な、何しやがる!」
そんな善吉の怒鳴り声にもお構い無しに将守は肩を落とす。そして彼は率直な感想を述べた。
「相変わらず長谷川のヤツは女たらしだな」
普段通りらしい長谷川の言動に、将守は「やれやれ」と言った風情で首を振る。それに瞬間湯沸かし器よろしく善吉がまくしたてる。
「べらんめぇ! 旦那に向かって無礼な事言ってんじゃねぇ!」
善吉のあまりの怒髪天を衝く様子に、将守は少し目を瞠(みは)った。しかしすぐにいつもの調子で笑う。
「本当の事だろうが。全く、長谷川のあの状況は羨ましいなぁ、善吉」
「う、羨ましいのは……確かに……って何言わせるんだ、こん畜生!」
一瞬将守の言葉に惑わされそうだった善吉だが、すぐにまた怒鳴りだした。されど将守は特に気にした様子も無く別の方向へと視線をやる。そして人影に気付いて善吉の方を叩いた。
「ほらほら、あっちの男にも聞かなきゃまずいんじゃねえか?」
馴れ馴れしい将守の言い方が癪に障る善吉だったが、ひとしきり震えるとまた大声で怒鳴る。
「言われなくても行ってくるってんだ!」
長屋から出てきた中年の男に善吉が八つ当たりし始めるのを目の端に留めつつ、将守は別の場所に視線を移した。
将守の視線の先は井戸。水は生活をする上では必ず必要なものである。この時代、長屋には必ず井戸があり、井戸は庶民の情報交換の場でもあった。その名残が今に『井戸端会議』の言葉だけを残している。
人はいない。そう判じようとして将守は再び長谷川の方に目をやったが、何か違和感を感じて眉を寄せた。
――人はいなかった、はずだ。
将守には人の気配は感じられなかった。しかし、視線を再び井戸に移せば、そこに人影が確かにある。
人影と判別できるのは、影が人のシルエットでもって動いているせいだ。それ以外――音、気配――からは何も無いようにしか思えない。
「これは随分と」
将守は声を押し殺して笑った。
忍並みの気配の薄さは、逆に目立つ。忍だとて、『気配を完全に消す』事は夜以外はしない。それを日中に堂々とやってのけるのは、忍ではない事の証左。だが、人影の気配の薄さは忍以外には出せるような代物ではない。
井戸の近くにいたのは、まだ若い男だった。
涼しげな紺の着流しを綺麗に着て、切りそろえられた髪を高い位置で白の紐で結ってある。整った顔立ち故に色男と呼べなくも無いのだが、幼さの残る顔がそれを否定していた。
顔を洗おうとしているらしく、彼は肩に手ぬぐいらしき布きれを引っ掛けて井戸の水を汲んでいる。だが、おかしな事に水音や桶が沈む音は全くしない。
彼が井戸から水をくみ上げ、地面に置く。そして水がはられた桶に手を入れると、顔を洗い始める。自然な動きでしかないのに、ただただ音が無い。
将守はそれをひとしきり見終えると、気配を消した。将守から発せられる音、体温がゼロになる。だが、その変化に気付くものは一人としていない。無論、それは手ぬぐいで顔を拭う青年も含めて。
「五月蝿いのは嫌いかい? お兄さん」
真後ろから声だけを青年に聞こえるように将守が言うと、青年は飛び跳ねるようにして振り向きながら後ずさった。驚いたのだろう、目を丸く見開いて凝視する姿は小動物に近い可愛らしさがある。
そのあまりにも幼い姿に将守はくつくつと喉を鳴らして笑う。
「そんなに綺麗に気配消してると、かえって怪しまれるぜ」
暗に馬鹿にしながらの言葉に、青年はすぐさま悪意を感じ取って顔をしかめた。そしてすぐさま切り返す。
「私よりも気配が希薄な貴方に言われたくないですね」
「お。言うねぇ」
相変わらずくつくつと笑い続ける将守をそのままに、青年――朔夜は着流しを正して息をついた。そうすると、先ほどまでの幼さは払拭されて、独特の落ち着いた雰囲気になる。例えるのならば、波のない水面だ。
朔夜は下から上へと将守を見上げていく。黒い着物の上に黄色い袈裟の坊主、と言いたい所だが、頭部を見ると坊主の前に『クソ』を付けそうになった。怪我でもしているのだろうか、よく見れば着物の下は包帯で巻かれており、その包帯にも朱で何事か書かれている。
訝しんで朔夜は将守に問う。
「八丁堀には見えませんが、お坊様はどちらの方で?」
「まあ、一応は幕臣かな?」
おちゃらけて答える将守の声にかぶさるように、お凛の甲高い声が小道を通り抜けた。
「八助さん、殺されたのかい?」
お凛の声の大きさに慌てて長谷川が羽交い絞めにする形で彼女の口を塞ぐ。もちろん、本気は出していないため優しくだ。
しかし、お凛の声のおかげで将守と朔夜の視線は完全に二人の方へと向けられていた。
「殺されたとは断定できぬ」
咎める様に長谷川が言う。警戒するように周囲に視線を走らせる長谷川だが、将守と朔夜には気付かない。見えているのに気付けない、のだが。
将守は顎に手をやると、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべる。
「お兄さんは八助とは親しかったのか?」
虚を突かれたように目を瞠った朔夜だったが、すぐに冷静になって将守を見据えた。
「親しいと言えるかはわかりませんが、八助さんの所の吉之助はよく私の部屋も遊び場にしていましたからね」
言いながら、朔夜の脳裏には『いろはにほへと』の練習で無残に墨だらけになった壁の姿が浮かぶ。消しても消しても現れる墨の文字に、最終的に放置と言う方法をとる他なかったのは、割と最近の悪夢だ。
思い出した悪夢に若干顔をしかめた朔夜の耳に、お凛のソプラノが入ってくる。
「八助さんの死体、おかしかったって噂が流れてますけど。どうなんです? 旦那」
長谷川の手から逃れたお凛が、首を傾げながら長谷川を見上げた。
朔夜の視線は長谷川の方へとそそがれていた。集中するように、耳をそばだてる朔夜に気付いて、将守が朔夜を観察するように覗き込む。
「……すまん、口外できぬでな」
注視するお凛の視線に顔をしかめつつ、長谷川は躊躇いながら言葉をつむいだ。
侍にそう言われては何も言えない、お凛は諦めたように息をつく。そして「さいですか」と頷いて笑った。長谷川は複雑そうに笑みながら「すまんな」と謝意を述べる。
朔夜の頭に二人の会話が反芻される。
――おかしな死体、八丁堀が口外できないような……。
一笑に付してしまいたい気分になった朔夜だが、どうにも引っ掛かるものがあるらしい。彼は考え込むように空を見て自分の前髪に触れた。
「生気が抜かれててね。川に落とされる前に殺されてた可能性が高いんだ」
思考の中に身を落としていた朔夜を、将守の囁きが引きずり出した。瞠目しながら朔夜は将守を見る。将守は相変わらず笑みを浮かべながら朔夜を覗き込んでいた。
朔夜は僅かに眉を寄せ、訝しげに将守に問う。
「どうして、そんな事を私に教えなさる?」
その言葉を受けて、将守は自然に朔夜から視線を外す。そして踊るように身を翻した。
「お兄さんが面白いからさ」
答えの様で答えになっていない答えに、朔夜の眉間のしわがさらに深くなる。
遊ばれている感覚と苛立ちを思考から排して、朔夜は目を伏せてから唐突に気配を元に戻した。
「長谷川様」
呼びかけに驚いたのは長谷川本人だけではない。横に居た将守は慌てながらも朔夜に合わせて気配を元に戻す。
「夜、お主おったのか」
慌ててお凛を引き離しつつ、長谷川が聞いた。すると先ほどまでやっていた将守との剣呑な雰囲気はどこへやら、朔夜は綺麗に頭を下げる。朔夜に逆らうような雰囲気は欠片も無かった。
「先程より。手がかりになるかは分かりかねますが八助が最近花街に入るのを見た事があります」
丁寧に、だがはっきりと言い切った朔夜に、思わず三人は目を瞠る。
「なっ! よるさん、本当かい!?」
お凛の声が大きくなった。ちなみに、花街とは今で言う歓楽街を指す。妻子持ちだろうと花街に繰り出す男はよくいるが、たかが町人にそれだけの銭がないのが普通だ。一体、あの貧しい暮らしの中でどうやってそんな金を搾り出したのか。
そんなお凛の声にも揺さぶられた様子は無く、朔夜はゆっくりと面を上げて頷く。
「見ただけですので何用があってかは分かりかねます」
静かに言って長谷川を見る朔夜の目は揺るぎのない物だった。それにしばし腕を組んで考える素振りを見せた長谷川が頷く。
「分かった。よく知らせてくれた、夜」
「いいえ」
再び朔夜は頭を下げる。その姿に、将守は口を三日月に吊り上げた。
そんな将守の様子など気にしていない長谷川が踵を返して呼びかける。
「行くぞ、善吉、将守」
「へい!」
取調べをしていた善吉が慌てたように言いながら長谷川の元へ走った。その後を将守もニヤニヤと笑いながら付いて行く。
将守の姿も見えなくなるタイミングで、朔夜は再び気配を消した。
そして彼は歩き出す。彼の視界に映し出される黒い靄と赤い靄を辿って。青く清浄な靄に打ち消されそうなかすかな靄を。その姿を、引き返した将守が見ているとも知らず。