第9章 影と真と Y
残響が止み、ステンドグラスから差す光に浄化されるかのごとく、黒い影と靄は跡形もなく消え去った。残るのはロインとカイウスの荒い呼吸、それにルビアとガルザの静かな吐息だけだった。
「カイウス、今のは一体?」
ロインは剣を収めながら、まだ事態をつかみきれずに困惑しているという様子でカイウスに尋ねた。カイウスはついさっきまでスポットが立っていた場所をじっと見つめ、剣を収めながら静かに口を開いた。
「あれはスポットっていう、この世界とは別の世界から来た魔物だ。2年前に全部駆逐したと思ってたけど、まさかまだ残っていたなんて…。」
「別の世界?」
ますますロインの頭上に疑問符が飛び交う。うまい言葉が見つからないらしく、カイウスは頭をかき回し、どう説明すべきか困った顔になった。そこへルビアが、ガルザのもとに歩み寄りながら助け舟を出した。
「あたし達が住むこの世界に、あのスポットっていうのは本来存在しないの。けど、あるスポットがこの世界に飛ばされてきて、自分の世界に帰ろうとプリセプツを構築した。それは『生命の法』と呼ばれて、死者を蘇らせる法として教えられ、多くのヒトたちが、そのプリセプツで召喚されたスポットの犠牲になったわ。…だけど、『生命の法』を生み出したスポットは2年前にあたし達が倒したし、それ以来『生命の法』は行われていないはず。もう現れることはないと思っていたのに、まさかガルザの中から出てくるなんて…。」
「……生命の…法………?」
その時、ガルザがボソッと呟き、3人の会話に口をはさんだ。そのことについて一瞬驚くものの、すぐに平静を取り戻し彼に目を向ける。やはり先程までとは別人のような雰囲気をまとっているガルザがそこに横たわっている。
スポットから開放されたせいだろうか?
カイウスとルビアはそう感じた。2人の脳裏を掠めたのは、炎に包まれるジャンナで対立した、今は亡き前教皇との記憶。命を簡単に扱う姿から慈愛に満ちた姿へと豹変したその様は、カイウスらに混乱を与えるものだった。今のガルザは、その教皇と似ていた。
「『冥府の法』…とは違うのか…?」
そんなガルザが発した『冥府の法』という聞きなれない語。ロインはもちろん、カイウスとルビアですら首を傾げた。
「わからないわ。『冥府の法』とは何?」
逆にルビアが尋ねた。その口調は、先程対峙していた時からは想像できないほど丁寧で静かなものだった。ガルザはそんなルビアの顔を見て答えてくれた。
「…故人をこの世に蘇らせるプリセプツの名だ。俺も、実際にこの目で見た。空間が裂け、暗い向こう側から死者が戻ってきたのを…。」
「そんなバカな…。」
カイウスは思わず口を開いた。彼からすれば、そうした旨い話に乗せられて多くが犠牲になり、しかもそれが自分達を滅ぼすことに繋がる事態に遭遇したのだ。死者が蘇るなどありえるとは思えないのも当然である。だが、ガルザは首を左右に振り、カイウスに視線を移した。
「嘘ではない。その証拠を、君たちはその目でしっかり見ているのだから。」
「なんだって?」
「ヴォイドというレイモーンの民がいるだろう?彼は、16年前のジャンナ事件で命を落としたレイモーンの男だ。」
「「「!?」」」
ロイン達の目が驚愕で大きくなる。アルミネの里で戦った、あの顔に刺青の入った男。あのレイモーンの民が『冥府の法』の成果だとガルザは言う。ヴォイドが紛れもなく実体を持っていたことは、直接戦ったロインとカイウスがよく理解している。あれが一度死んだ者の姿だとは誰も思うまい。
「ヴォイドは、俺の目の前で行われた『冥府の法』で現れた。だから、『冥府の法』が死者を蘇らせることができるのは確かだろう。」
驚きを隠せずにいる3人に、ガルザはそう言葉を続けた。だが、そこまで言うと急に表情を曇らせ、額に手を当てた。そして何かを思い出そうとするように目を閉じ、辛そうに声を振り絞らせた。
「…だが、その時からずっと意識が曖昧なんだ。まるで夢を見続けたまま生きているような感覚…。ロイン。俺は、何をしていた?何でお前に、昔みたいな笑顔がないんだ?」
「…!」
一瞬、ロインは言葉を失った。顔から血の気が失せ、その場に立ち尽くす。だがすぐに、傍に立つ2人に震える声で尋ねた。
「…カイウス、ルビア、一つ聞きてぇ。こいつ…ガルザに何があったか、あんた達はわかるか?」
そう問われて、カイウスとルビアははっとロインを見た。俯いているため表情は読み取れないが、わずかに肩が震えている。2人は互いの顔を見合わせ、そしてカイウスが静かに答えた。
「おそらく、さっきのスポットに取り憑かれていたせいで正気を失っていたんだと思う。さっきまでの禍々しい気はあのスポットが発していた物で、ガルザ自身は…今のが本当の姿だと思う。もしかしたら、その『冥府の法』を見た時にスポットに憑依されたのかも」
「いつだ?」
「え?」
「その『冥府の法』ってのを見たのはいつだ!?ガルザ、答えろ!」
カイウスの言葉を最後まで聞かず、ロインはその場にバッと膝をつき、ガルザの顔を覗き込むようにして、ものすごい剣幕で声を荒げて問うた。考えたくない仮説がロインの頭をよぎった。思いたくなくとも知らなければならない真実。少年は今、それに直面しようとしていた。それを知ってか知らずか、ガルザはロインとは対照的に落ち着いた声で、記憶を辿るように言葉を紡いだ。
「…7年前だ。お前が初めてエルナの森で稽古した後で…スディアナでの任務中に呼び出されて…そうだ、あの時だ。あの時からいつも、ロインが俺を睨みつける目を…俺を憎む姿ばかり見てきた気がする…。」
「………っ!!」
全てが繋がってしまった。それがロインの抱いた想いだろう。それまでの熱のこもった激しい表情は、一変して衝撃で凍りついたようになる。7年前のあの日、エルナの森で母と共に再会したガルザは、すでに彼の知るガルザではなかったのだ。スポットという魔に憑かれ、彼自身がもともと持っていた負が増幅された姿と言ってもいいだろう、それが幼いロインから笑顔を奪った元凶だった。それは、優しくなったガルザの赤い瞳が事実だと物語っていた。
「くそぉっ!!!」
ダンッと両の拳を床へ強く叩きつけると同時に、短く、激しく響いた叫び。血が滲み出している拳を、傷だらけの全身をわずかに震わせ、ロインは俯いたその状態から動かなくなる。心配と同情の眼でカイウス達が彼を黙って見つめていた時、ふとあることに気がついた。それは、ロインの荒々しい呼吸に紛れて聞こえてきた、何かをすするような音。
ロインの目からは、涙が溢れていた。
最後にそれを見たのは、グレシアが死んだあの夜だった。それからは、枯れてしまった泉のように、一滴も流れることはなかったのだ。父ドーチェが亡くなった時でさえ、悲しむことはあっても泣くことはなかった―――泣けなかったのだ。けれどそれが今、7年の時を経て、ロインの中でこみ上げてくる感情に任せて、突然また姿を現したのだ。彼の中で渦巻く感情、それが何かは本人もはっきりとわからない。ガルザが元に戻った喜びか、彼を別人に変えていた要因を呼び出した者に対する怒りか、あるいはそんな彼の手にかかって命を落とすことになった母グレシアに対する悲しみや悔しさか…。一度に多くがロインの中に生まれたことで、それを抑えきれなくなった彼の体が、全てを“涙”という形で表現していた。ロインは、自分の目から零れ落ちるそれを、拭おうとも隠そうともしなかった。正気に戻ったガルザは、そんなロインの金髪の上にそっと手を乗せた。そして7年前とまったく変わらないやり方で、彼の頭をそっと撫でる。すまなかった、そう呟きながら…。
「カイウス、今のは一体?」
ロインは剣を収めながら、まだ事態をつかみきれずに困惑しているという様子でカイウスに尋ねた。カイウスはついさっきまでスポットが立っていた場所をじっと見つめ、剣を収めながら静かに口を開いた。
「あれはスポットっていう、この世界とは別の世界から来た魔物だ。2年前に全部駆逐したと思ってたけど、まさかまだ残っていたなんて…。」
「別の世界?」
ますますロインの頭上に疑問符が飛び交う。うまい言葉が見つからないらしく、カイウスは頭をかき回し、どう説明すべきか困った顔になった。そこへルビアが、ガルザのもとに歩み寄りながら助け舟を出した。
「あたし達が住むこの世界に、あのスポットっていうのは本来存在しないの。けど、あるスポットがこの世界に飛ばされてきて、自分の世界に帰ろうとプリセプツを構築した。それは『生命の法』と呼ばれて、死者を蘇らせる法として教えられ、多くのヒトたちが、そのプリセプツで召喚されたスポットの犠牲になったわ。…だけど、『生命の法』を生み出したスポットは2年前にあたし達が倒したし、それ以来『生命の法』は行われていないはず。もう現れることはないと思っていたのに、まさかガルザの中から出てくるなんて…。」
「……生命の…法………?」
その時、ガルザがボソッと呟き、3人の会話に口をはさんだ。そのことについて一瞬驚くものの、すぐに平静を取り戻し彼に目を向ける。やはり先程までとは別人のような雰囲気をまとっているガルザがそこに横たわっている。
スポットから開放されたせいだろうか?
カイウスとルビアはそう感じた。2人の脳裏を掠めたのは、炎に包まれるジャンナで対立した、今は亡き前教皇との記憶。命を簡単に扱う姿から慈愛に満ちた姿へと豹変したその様は、カイウスらに混乱を与えるものだった。今のガルザは、その教皇と似ていた。
「『冥府の法』…とは違うのか…?」
そんなガルザが発した『冥府の法』という聞きなれない語。ロインはもちろん、カイウスとルビアですら首を傾げた。
「わからないわ。『冥府の法』とは何?」
逆にルビアが尋ねた。その口調は、先程対峙していた時からは想像できないほど丁寧で静かなものだった。ガルザはそんなルビアの顔を見て答えてくれた。
「…故人をこの世に蘇らせるプリセプツの名だ。俺も、実際にこの目で見た。空間が裂け、暗い向こう側から死者が戻ってきたのを…。」
「そんなバカな…。」
カイウスは思わず口を開いた。彼からすれば、そうした旨い話に乗せられて多くが犠牲になり、しかもそれが自分達を滅ぼすことに繋がる事態に遭遇したのだ。死者が蘇るなどありえるとは思えないのも当然である。だが、ガルザは首を左右に振り、カイウスに視線を移した。
「嘘ではない。その証拠を、君たちはその目でしっかり見ているのだから。」
「なんだって?」
「ヴォイドというレイモーンの民がいるだろう?彼は、16年前のジャンナ事件で命を落としたレイモーンの男だ。」
「「「!?」」」
ロイン達の目が驚愕で大きくなる。アルミネの里で戦った、あの顔に刺青の入った男。あのレイモーンの民が『冥府の法』の成果だとガルザは言う。ヴォイドが紛れもなく実体を持っていたことは、直接戦ったロインとカイウスがよく理解している。あれが一度死んだ者の姿だとは誰も思うまい。
「ヴォイドは、俺の目の前で行われた『冥府の法』で現れた。だから、『冥府の法』が死者を蘇らせることができるのは確かだろう。」
驚きを隠せずにいる3人に、ガルザはそう言葉を続けた。だが、そこまで言うと急に表情を曇らせ、額に手を当てた。そして何かを思い出そうとするように目を閉じ、辛そうに声を振り絞らせた。
「…だが、その時からずっと意識が曖昧なんだ。まるで夢を見続けたまま生きているような感覚…。ロイン。俺は、何をしていた?何でお前に、昔みたいな笑顔がないんだ?」
「…!」
一瞬、ロインは言葉を失った。顔から血の気が失せ、その場に立ち尽くす。だがすぐに、傍に立つ2人に震える声で尋ねた。
「…カイウス、ルビア、一つ聞きてぇ。こいつ…ガルザに何があったか、あんた達はわかるか?」
そう問われて、カイウスとルビアははっとロインを見た。俯いているため表情は読み取れないが、わずかに肩が震えている。2人は互いの顔を見合わせ、そしてカイウスが静かに答えた。
「おそらく、さっきのスポットに取り憑かれていたせいで正気を失っていたんだと思う。さっきまでの禍々しい気はあのスポットが発していた物で、ガルザ自身は…今のが本当の姿だと思う。もしかしたら、その『冥府の法』を見た時にスポットに憑依されたのかも」
「いつだ?」
「え?」
「その『冥府の法』ってのを見たのはいつだ!?ガルザ、答えろ!」
カイウスの言葉を最後まで聞かず、ロインはその場にバッと膝をつき、ガルザの顔を覗き込むようにして、ものすごい剣幕で声を荒げて問うた。考えたくない仮説がロインの頭をよぎった。思いたくなくとも知らなければならない真実。少年は今、それに直面しようとしていた。それを知ってか知らずか、ガルザはロインとは対照的に落ち着いた声で、記憶を辿るように言葉を紡いだ。
「…7年前だ。お前が初めてエルナの森で稽古した後で…スディアナでの任務中に呼び出されて…そうだ、あの時だ。あの時からいつも、ロインが俺を睨みつける目を…俺を憎む姿ばかり見てきた気がする…。」
「………っ!!」
全てが繋がってしまった。それがロインの抱いた想いだろう。それまでの熱のこもった激しい表情は、一変して衝撃で凍りついたようになる。7年前のあの日、エルナの森で母と共に再会したガルザは、すでに彼の知るガルザではなかったのだ。スポットという魔に憑かれ、彼自身がもともと持っていた負が増幅された姿と言ってもいいだろう、それが幼いロインから笑顔を奪った元凶だった。それは、優しくなったガルザの赤い瞳が事実だと物語っていた。
「くそぉっ!!!」
ダンッと両の拳を床へ強く叩きつけると同時に、短く、激しく響いた叫び。血が滲み出している拳を、傷だらけの全身をわずかに震わせ、ロインは俯いたその状態から動かなくなる。心配と同情の眼でカイウス達が彼を黙って見つめていた時、ふとあることに気がついた。それは、ロインの荒々しい呼吸に紛れて聞こえてきた、何かをすするような音。
ロインの目からは、涙が溢れていた。
最後にそれを見たのは、グレシアが死んだあの夜だった。それからは、枯れてしまった泉のように、一滴も流れることはなかったのだ。父ドーチェが亡くなった時でさえ、悲しむことはあっても泣くことはなかった―――泣けなかったのだ。けれどそれが今、7年の時を経て、ロインの中でこみ上げてくる感情に任せて、突然また姿を現したのだ。彼の中で渦巻く感情、それが何かは本人もはっきりとわからない。ガルザが元に戻った喜びか、彼を別人に変えていた要因を呼び出した者に対する怒りか、あるいはそんな彼の手にかかって命を落とすことになった母グレシアに対する悲しみや悔しさか…。一度に多くがロインの中に生まれたことで、それを抑えきれなくなった彼の体が、全てを“涙”という形で表現していた。ロインは、自分の目から零れ落ちるそれを、拭おうとも隠そうともしなかった。正気に戻ったガルザは、そんなロインの金髪の上にそっと手を乗せた。そして7年前とまったく変わらないやり方で、彼の頭をそっと撫でる。すまなかった、そう呟きながら…。