グレシアさんに師事するようになってから、２年が経った。初めの半年くらい、俺は毎日のように死闘を挑んだ。だが、そのいずれも敗北に終わった。そのうち、俺は仇討ちから本当に剣の師事を受けるようになっていた。ロインは、といえば、木刀から真剣で訓練を受けさせてもらえるようになっていた。

「ねえねえ、ガルザ！」

ロインはすっかり俺に懐いていた。俺を兄のように慕っていた。俺も、ロインは弟のように感じるようになっていた。日々必死に成長しようとする姿は、見ていて思わず微笑がこぼれる。無垢な笑顔は、首都での任務の苦労を忘れさせてくれる。そのように育ったのは、学者だと聞いた穏やかな性格の父・ドーチェさん、そして、今でも超えることのできない圧倒的な剣の実力を誇る母・グレシアさんのおかげだろう。子は親の鏡。ロインを見ていれば、２人がどんな人物か悟ることはできる。

（だからこそ、グレシアさんが理由なく父上を斬るとは、思えない…。）
「ガルザ！聞いてるのか？」

不満そうに頬を膨らまして俺を見上げるロイン。俺は苦笑しながら、ロインの頭をくしゃっと撫でた。

「悪い悪い。で、なんだ？」
「だからさ、なんで母さんって家事下手なんだと思う？父さんは、あんなに何でもできるのに。」
「さ、さあ…何でだろうな？」

彼女が家事が苦手な理由。それは、三騎士を継ぐ者として剣の修行に明け暮れ、そして近衛騎士となってからは守るべき存在のために必死な毎日を送っていた。家事に関わる時間などなかった。やらないものはできない。いたって単純な理由。だが、その件については、グレシアさんに口止めされていた。何故だか、彼女は元近衛騎士団長という肩書きをロインに隠し続けていた。一兵士である俺より強いことについても聞かれたことがあったが、それも曖昧に受け流していた。まるで、ロインをその手の世界から遠ざけようとするように。けれど、その割には俺に首都の情報を求めていた。彼女自身は、そこから片時も離れまいとするようだった。だが、その理由は話してくれない。

「…そうね。全てを話すその時は、ガルザ、私がサームを斬ることになった事情も話せる時ね。」

ロインが眠りにつき、広い居間でテーブルを挟んで２人で言葉を交わした。ドーチェさんは食器の後片付けをしながら、俺達を静かに見守っている。

「…気になってたんですけど、なんで誤魔化さないんですか？父上を殺したことを。」

頬杖をつきながら尋ねた。確かに、グレシアさんは父上の仇だ。けれど、それを話題にしても、俺はすぐに頭に血が上らなくなっていた。だが、彼女が仇だという認識がなくなったわけじゃない。

「事実は変わらない。遅かれ早かれ、いずれは知れること。なら、デマを吹き込まれる前に語れる事実を話したほうが懸命じゃない？」
「語れる事実？」
「そう。根拠を持って話せる事実よ。私、いい加減なことを吹き込むのも、他人をつっこませるのも嫌いだから。」
「そこが、グレシアさんの長所でも短所でもあるんですよ。」

ドーチェさんは微笑を浮かべながらそう言った。グレシアさんの隣の席に腰掛け、変わらず静かに話を聞く姿勢に戻った。

「悪かったわね。面倒な性格で。」

ドーチェさんの言葉に、グレシアさんは少し不貞腐れたようだった。しかし、俺も彼の意見に同感だった。いい加減に物事を判断する人じゃない。だから、仇だという認識を持ちながらも、俺は彼女を信頼していた。彼女と決着をつけるのは、この人が言う“全て”を知ったあとでも遅くはない。この人はそのために、俺をそばに置いたんだ。俺にも真実を知る権利があると、そう思ってくれているから。

「そういえば、ガルザ。あんた、私に師事してるって誰かに言ってる？」

穏やかな口調と鋭い瞳で尋ねられた。思わず背筋がゾッとする。彼女がその目をする時は、たいてい何か意味がある。俺にそれを悟ることはできないが…。

「…１人だけ。フレア・ヴァンジーノっていう同僚です。数年前に知り合って、争いは好まない奴ですが、守るための戦いには長けた奴です。そういえば、あいつ、グレシアさんに憧れて兵の道を歩んだって」
「その人だけ？」

グレシアさんの瞳は相変わらず冷たかった。俺はその眼光に気圧されたのか、ただ静かに頷いた。すると、ようやく彼女の瞳は穏やかになった。

「なら、それ以外には口外しないで。できれば、今後は彼女にもあまり話さないように。」

それでも、口調が厳しかった。

「何故ですか？」

ごくりと唾をひとつ飲んだ。視線をそらし、目を閉じる彼女の顔をまっすぐ見つめる。彼女はふぅ、と静かに息を吐き、どこか空ろに目をうっすら開いた。

「…良くないものに利用されそうで、嫌なの。直感でしかないけど…でも、そのせいで誰かが傷ついてほしくない。」
「どういうことですか？」
「要は、現時点で私に深く関わりすぎるなってこと。私が許可するまで。」
「いつ許可してくれるんですか？」
「私が答えを見つけるまで。」
「…要は無期限で待て、と。」

俺は苦笑をこぼした。つられて彼女も苦笑した。「悪いわね」と一言呟き、彼女は外の空気を吸いに出ようとした。

「ガルザ。闇に深入りしないで。約束よ。」

その時、悲しげな声で忠告された。


けれど、俺はこの時の約束を守れなかった。


それがどんな結末をもたらすか、知るのは随分と先の話だった―――



「ガルザ、何してるの？」
「ああ、フレア。スディアナ事件に関する資料を探そうと思ってな。」

スディアナの城の書庫で、俺は当時に関する資料を探していた。グレシアさんが首都を去ることになった理由。だが、彼女が今も首都から離れようとしない理由。それは過去にあると俺は思った。他者を巻き込むわけにはいかない。グレシアさんのその忠告だけは守ろうと思い、フレア以外の協力は避けるつもりでいた。それはつまり、最も当時を知るバキラ様や国王、后様には事情を聞けないということ。それは痛手だが、しかしできることはある。俺はそれを信じていた。

「あ、忘れてたわ。ガルザ、あなたに伝言があったの。」

フレアは俺を覗き込むようにして言った。

「伝言？」

ちょうど手にした一冊の本のページを開きながら、俺はフレアを見た。

「ええ。バキラ様が、あなたに面白いものを見せたいって。」
「面白いもの？」

それが、悪夢への誘いだと気づくはずもなく、俺は素直にバキラ様の元に向かった。バキラ様がいつもいる、城のそばにある小さな宮殿に。



「ガルザ。お主、最近随分と剣の腕をあげたのう？」

バキラ様は俺に背を向けたまま、穏やかな口調で発した。だが、俺の身体は何かに震えた。それは、危険なものに対峙する時と似ていた。

「仇討ちは、もうよいのか？」
「！」

悪寒を感じた。だが、それはすぐに気のせいだと思った。振り向いたバキラ様が、あまりにも穏やかだったから。いつもの慈愛に満ちた表情で、笑っていた。

「それも良い。憎しみは何も生まぬ。それより、今からお前に面白いものを見せよう。」
「バキラ様、一体何を？」
「何。近頃やけに一生懸命に動くお前への、ちょっとした褒美だ。…お前の父君に、もう一度会う術が完成したのでな。それを見せてやろう。」

それを聞いた瞬間、２年前のように耳を疑った。…気のせいだろうか。いつもこの方には驚かされている気がする。

「名を、『冥府の法』と言う。」

説明しながら、彼は懐から赤い結晶を取り出した。

「それは？」
「“ペイシェント”という。高い魔力を秘めた結晶でな、これから行うプリセプツには必要不可欠なものじゃ。ま、これが最後の一個。つまり、行えるのはこれが最後になる。」
「それで、父上を…？」

わずかに期待が募る。

「いや。」

首を左右に振りながら出た、否定の言葉。意味が理解できず、眉をひそめた。バキラ様は、プリセプツの準備をしながら言葉を続ける。

「これから『冥府の法』で呼ぶのは、この法をより完璧な形で施行するための手助けをする者だ。」
「より完璧、ですか？」
「そうじゃ。このペイシェントに並ぶ、強い魔力を秘めた物質。それを集めるための助けだ。」
「ペイシェントと…同じ？」
「そう。ガルザ、お前にもその回収を手伝ってもらおうと思っての？」

バキラ様の言葉に惹きこまれていくのが、自分でもわかった。その誘いを振り切ることはできない。バキラ様の手の中のペイシェントが赤い輝きを放ち、その後ろで黒い穴が開いた。

「お前に集めて貰いたい物、それは―――」



―――そして俺の意識は夢の中に埋もれた



『グレシアさん。話があります。』
「何？」

俺の口から、勝手に言葉が紡がれる。
どこか朦朧としているはずなのに、俺の声ははっきりしている。
そして芽生える、久々に感じた“憎悪”。



“復讐”



そのための準備も怠らない。
１人の力じゃまだ勝てない。
だが、一対多ならどうか？

「くっ！この臭い…撒き餌？けど、この森でそんなもの使えば、ガルザ、あんたも巻き沿いを食らうわよ。」
『俺が、そんなヘマをするとでも？』

魔物がたくさん生息するエルナの森。
そこでこの策を効果的に使う術。
魔除けの臭いを自分に擦る。
そうすれば、狙いはグレシア―――お前１人だけだ！
この負の望みを叶えるついでにあの方のお遣いもできるとは、まさに一石二鳥だ。
気分がいい。

「…なんで？」

その時、幼い声が俺の胸に響いた。

「なんで母さんを斬ったの！？ねぇ！？ガルザ！！」

俺はそんな顔を見たくない。
なのに、何故だ？
わからない。
体は言うことを利かなくなっていくばかりだ。
俺が生むのは、お前の憎しみの顔だけだった……。


―――ロイン


―――俺はお前に笑っていてほしい


―――俺が一番好きなお前の表情だから


―――だから頼む


―――そんな顔をするな



「ロイン。…スポットのせいとはいえ、済まなかった。」
「ガル……」

だからロイン。
お前を死なすわけにはいかない。
もう一度お前に笑顔を取り戻すために、お前が消えちゃ意味がないからな。
そして、俺も死なない。
もう一度お前の笑顔を見るまでは―――