第16章 引き潮の彼方で ]
「くくく……」
敗北したにも関わらず、アルバートは静かに笑い声を上げた。だが、彼にもう動く力が残っていないと知っているため、ティルキスは傍観するだけだ。アルバートも彼の考えを知ってか、緩慢な動作で顔を上げた。
「見事だよ、ティルキス・バローネ。……私は、お前には敵わないようだ」
「お世辞のつもりか? 悪いが、だからって見逃すわけには――」
「ああ、わかっている」
そう答えるアルバートの表情は、とても穏やかだった。
「本当は、最初からわかっていた。私が死んだ、あの時からな……」
「……アルバート?」
そして彼の呟く言葉は、何か別の物事を指しているようだった。その意味を問うようにアーリアが名を呼ぶと、アルバートは彼女へ視線を移した。
瞬間、赤いはずの彼の瞳が、本来の青に見えた気がした。
「私はただ、認めたくなかっただけだった。好いた女一人笑顔にさせてやることのできない、自分の無力さを」
「! アル――」
「ティルキス・バローネ」
それは、彼が再びこの世に戻ってきた理由だった。その心残り――負がスポットを寄せつけ、だがその想いの強さ故にスポットすら呑み込んだのだ。
それを聞いて、アーリアが黙っていられるわけがなかった。だが彼女の声を遮り、アルバートはティルキスの名を呼んだ。その視線はもうアーリアにはなく、かわりに鋭さのある紅の瞳に王子を移していた。そして最後の力を振り絞って立ち上がると、ティルキスに向かって力の入らない脚を叱咤し歩み寄ろうとした。
「ティルキス様!」
その様子に、フォレストが警戒して険しい声をあげる。
だが、ティルキスは手でそれを制し、近寄ってきたアルバートに大人しく胸倉を掴まれた。それでも動じることなく彼の次の行動を待っていれば、アルバートは口端を引き上げ、耳打ちするように呟いた。
「貴様は私に勝った。だから貴様は、何があろうとも許されないのだ。――私のように、愛した女を笑顔にできないことなど……絶対にだ」
「……それが遺言か?」
ティルキスが瞳を細めながら問えば、アルバートはふっと不敵に笑み、「そうだ」と短く返した。
直後、ティルキスから手を放した彼の全身から黒いモヤが溢れ出た。カイウスらは何が起こったのかと身構える。だがすぐに、それはアルバートの内に宿っていたスポットの最期が、彼の肉体から流れ出ているのだとわかった。
「アルバート!」
そのことに気づいたアーリアが悲痛な声で叫んだ。対して、アルバートの表情は静かなものだった。
「……さらばだ。次は、あの世で待っているぞ……」
それが彼の、本当に最期の言葉だった。
全身を覆っていた黒いモヤは大気に交じるように消えていき、力を失った彼の身体は砂の上に倒れ、動かなくなった。その直前、彼の瞳が本当に元の青に戻ったのを、彼らは決して見逃さなかった。
僅か残された残党はしっぽを巻いて逃げたのか、いつの間にか入江から姿を消していた。再び潮が満ち始めた入江を後にした一行は、そのままボーウの宿に身を寄せた。
その間、彼らを覆う空気は重く、不用意に口を開こうとする者は誰もいなかった。ただ翌日、朝食を済ませ次第出航するとだけ、ラミーの口から告げられただけだった。ロイン達はザレット一家、ナズノット夫妻と別れ、それぞれに充てられた部屋で夕方の時間を過ごしていた。
「ティルキスとアーリア、大丈夫かなぁ……」
いつものようにロインと二人で充てられた部屋で、カイウスはベッドに寝転がり、ぼんやりと呟いた。ロインは窓際で外を眺めながら、その独り言に耳を貸していた。
スポットの呪縛から解き放つため。
そう言えば聞こえはいいが、実際はアルバートを二度殺したようなものだ。彼を手にかけたティルキス、そして彼を大事に思っていたアーリア。入江を離れた時は気丈にしていたが、二人の心の内は、果たして今どうなっているのか。カイウスにできることは、せいぜい二人の心の整理がつくまで見守ることくらいだろうか。思わず溜息をこぼした、その時だった。
「ロイン、いる?」
軽いノックの音と同時に、部屋の外からルビアの声がした。どうしたのかとカイウスが尋ねれば、彼女はある人物と共に部屋の中へと入ってきた。
「シェルじい?」
「いやあ、入江では御苦労じゃったな」
クレッシェルは朗らかに言いながら部屋へ入ると、カイウス、それからロインへと視線を移す。そしてカイウスが思わぬ人物の来訪に少し目を丸くしベッドから起き上がったタイミングで、彼は単刀直入に話を切り出したのだった。
「ところで、ロインだったかな? あの剣はペトリスカが伝えている奥義のはず。あんたが何故あれを使えたのか、教えてもらないか?」
「そ、そうだ! ロイン、どうしてガルザの技を……ってか、いつの間に!?」
表情は変わらぬまま。しかし、その口調は徐々に周囲の空気を緊張させた。目の前にいる少年が何者なのか、それを量ろうとする彼の眼は、どこか現役時代を垣間見せる威圧感を同時に放っているようだった。老人の雰囲気に呑まれ反射的に背筋を伸ばしてしまったカイウスとルビアだったが、直後、彼らも思い出したようにロインに問いかけた。
するとロインは眉ひとつ動かすことなく、淡々と彼らの質問に答えた。
「ガルザ・ペトリスカに、昔見せてもらったことがある。二度目の時は実際に食らった。……それだけの、見よう見まねの技だ」
「ペトリスカの小僧に……? あんた、何者だ?」
「ロイン・エイバス。グレシア・ウルノアの息子だ」
「……そうか。似ているとは思っていたが……」
息を吐くようにこぼれた言葉。クレッシェルは納得したらしく、少年を見る眼が和らいでいく。
だがそれは途中で止まり、クレッシェルは再びロインに質問を投げかけた。
「グレシアの剣は使えるのか?」
「ああ」
「そうか。なら、ちょっと付き合え!」
「はっ……?」
そのまま威勢よく彼らに背を向け歩き出そうとしたクレッシェルに、ロインだけでなくカイウスとルビアも頭上に疑問符を浮かべ戸惑ってしまった。気配が後についてこないことに気付いたのか、クレッシェルは振り向くと、出会った時のような奔放さでこう言った。
「何してんだ! せっかくだからナズノットの剣も教えてやるって言ってるんだ! さっさとついて来な!」
時を同じくして、ティマはアーリアの部屋の戸を躊躇いがちに叩いていた。すると、中から応え、現れたのはなんとルキウスだった。
「ルキウス! 何してるの?」
「ティマか。ああ、アーリアに呼ばれてね。『冥府の法』を構築する最終段階に取りかかっていたんだ」
互いに驚きながらも、ルキウスはティマを中へと招き入れた。そこにラミーの姿はなく、空中に浮かんだ複雑に組み込まれたプリセプツの陣を前に手を止めるアーリアが二人へと視線を向けていた。
「ティマ、どうかしたの?」
「いえ、大したことじゃないんだけど……。その、アーリアさん、大丈夫かなと思って」
「ふふ、ありがとう。でもご覧の通りよ。今は一刻も早く、これを完成させなければならないもの」
穏やかに笑うアーリアの表情は、無理をしているようなものではなかった。どうやらティマの心配は杞憂に済んだようで、彼女はその様子に胸を撫で下ろした。
それからティマはルキウスに促されるままにベッドの端に腰かけ、作業を再開させた二人の様子をしばらく眺めていた。
「……完成させたそのプリセプツを、白晶岩の欠片を使って私が発動させれば、全ての決着がつくんですよね?」
「ああ。……『生命の法』もそうだけど、『冥府の法』も人の想いを踏みにじるものだ。絶対に終わらせなければいけない」
「ええ。もう誰にも、こんな想いをさせないためにも……」
そしてぽつりとこぼした呟きに、二人は並々ならぬ想いを秘めながら応えた。それを聞いて、ティマはここへ来たもうひとつの要件を、意を決したように口に出した。
「ルキウス、アーリアさん。相談があるの」
その少女の声に、二人は静かに耳を傾けた。
敗北したにも関わらず、アルバートは静かに笑い声を上げた。だが、彼にもう動く力が残っていないと知っているため、ティルキスは傍観するだけだ。アルバートも彼の考えを知ってか、緩慢な動作で顔を上げた。
「見事だよ、ティルキス・バローネ。……私は、お前には敵わないようだ」
「お世辞のつもりか? 悪いが、だからって見逃すわけには――」
「ああ、わかっている」
そう答えるアルバートの表情は、とても穏やかだった。
「本当は、最初からわかっていた。私が死んだ、あの時からな……」
「……アルバート?」
そして彼の呟く言葉は、何か別の物事を指しているようだった。その意味を問うようにアーリアが名を呼ぶと、アルバートは彼女へ視線を移した。
瞬間、赤いはずの彼の瞳が、本来の青に見えた気がした。
「私はただ、認めたくなかっただけだった。好いた女一人笑顔にさせてやることのできない、自分の無力さを」
「! アル――」
「ティルキス・バローネ」
それは、彼が再びこの世に戻ってきた理由だった。その心残り――負がスポットを寄せつけ、だがその想いの強さ故にスポットすら呑み込んだのだ。
それを聞いて、アーリアが黙っていられるわけがなかった。だが彼女の声を遮り、アルバートはティルキスの名を呼んだ。その視線はもうアーリアにはなく、かわりに鋭さのある紅の瞳に王子を移していた。そして最後の力を振り絞って立ち上がると、ティルキスに向かって力の入らない脚を叱咤し歩み寄ろうとした。
「ティルキス様!」
その様子に、フォレストが警戒して険しい声をあげる。
だが、ティルキスは手でそれを制し、近寄ってきたアルバートに大人しく胸倉を掴まれた。それでも動じることなく彼の次の行動を待っていれば、アルバートは口端を引き上げ、耳打ちするように呟いた。
「貴様は私に勝った。だから貴様は、何があろうとも許されないのだ。――私のように、愛した女を笑顔にできないことなど……絶対にだ」
「……それが遺言か?」
ティルキスが瞳を細めながら問えば、アルバートはふっと不敵に笑み、「そうだ」と短く返した。
直後、ティルキスから手を放した彼の全身から黒いモヤが溢れ出た。カイウスらは何が起こったのかと身構える。だがすぐに、それはアルバートの内に宿っていたスポットの最期が、彼の肉体から流れ出ているのだとわかった。
「アルバート!」
そのことに気づいたアーリアが悲痛な声で叫んだ。対して、アルバートの表情は静かなものだった。
「……さらばだ。次は、あの世で待っているぞ……」
それが彼の、本当に最期の言葉だった。
全身を覆っていた黒いモヤは大気に交じるように消えていき、力を失った彼の身体は砂の上に倒れ、動かなくなった。その直前、彼の瞳が本当に元の青に戻ったのを、彼らは決して見逃さなかった。
僅か残された残党はしっぽを巻いて逃げたのか、いつの間にか入江から姿を消していた。再び潮が満ち始めた入江を後にした一行は、そのままボーウの宿に身を寄せた。
その間、彼らを覆う空気は重く、不用意に口を開こうとする者は誰もいなかった。ただ翌日、朝食を済ませ次第出航するとだけ、ラミーの口から告げられただけだった。ロイン達はザレット一家、ナズノット夫妻と別れ、それぞれに充てられた部屋で夕方の時間を過ごしていた。
「ティルキスとアーリア、大丈夫かなぁ……」
いつものようにロインと二人で充てられた部屋で、カイウスはベッドに寝転がり、ぼんやりと呟いた。ロインは窓際で外を眺めながら、その独り言に耳を貸していた。
スポットの呪縛から解き放つため。
そう言えば聞こえはいいが、実際はアルバートを二度殺したようなものだ。彼を手にかけたティルキス、そして彼を大事に思っていたアーリア。入江を離れた時は気丈にしていたが、二人の心の内は、果たして今どうなっているのか。カイウスにできることは、せいぜい二人の心の整理がつくまで見守ることくらいだろうか。思わず溜息をこぼした、その時だった。
「ロイン、いる?」
軽いノックの音と同時に、部屋の外からルビアの声がした。どうしたのかとカイウスが尋ねれば、彼女はある人物と共に部屋の中へと入ってきた。
「シェルじい?」
「いやあ、入江では御苦労じゃったな」
クレッシェルは朗らかに言いながら部屋へ入ると、カイウス、それからロインへと視線を移す。そしてカイウスが思わぬ人物の来訪に少し目を丸くしベッドから起き上がったタイミングで、彼は単刀直入に話を切り出したのだった。
「ところで、ロインだったかな? あの剣はペトリスカが伝えている奥義のはず。あんたが何故あれを使えたのか、教えてもらないか?」
「そ、そうだ! ロイン、どうしてガルザの技を……ってか、いつの間に!?」
表情は変わらぬまま。しかし、その口調は徐々に周囲の空気を緊張させた。目の前にいる少年が何者なのか、それを量ろうとする彼の眼は、どこか現役時代を垣間見せる威圧感を同時に放っているようだった。老人の雰囲気に呑まれ反射的に背筋を伸ばしてしまったカイウスとルビアだったが、直後、彼らも思い出したようにロインに問いかけた。
するとロインは眉ひとつ動かすことなく、淡々と彼らの質問に答えた。
「ガルザ・ペトリスカに、昔見せてもらったことがある。二度目の時は実際に食らった。……それだけの、見よう見まねの技だ」
「ペトリスカの小僧に……? あんた、何者だ?」
「ロイン・エイバス。グレシア・ウルノアの息子だ」
「……そうか。似ているとは思っていたが……」
息を吐くようにこぼれた言葉。クレッシェルは納得したらしく、少年を見る眼が和らいでいく。
だがそれは途中で止まり、クレッシェルは再びロインに質問を投げかけた。
「グレシアの剣は使えるのか?」
「ああ」
「そうか。なら、ちょっと付き合え!」
「はっ……?」
そのまま威勢よく彼らに背を向け歩き出そうとしたクレッシェルに、ロインだけでなくカイウスとルビアも頭上に疑問符を浮かべ戸惑ってしまった。気配が後についてこないことに気付いたのか、クレッシェルは振り向くと、出会った時のような奔放さでこう言った。
「何してんだ! せっかくだからナズノットの剣も教えてやるって言ってるんだ! さっさとついて来な!」
時を同じくして、ティマはアーリアの部屋の戸を躊躇いがちに叩いていた。すると、中から応え、現れたのはなんとルキウスだった。
「ルキウス! 何してるの?」
「ティマか。ああ、アーリアに呼ばれてね。『冥府の法』を構築する最終段階に取りかかっていたんだ」
互いに驚きながらも、ルキウスはティマを中へと招き入れた。そこにラミーの姿はなく、空中に浮かんだ複雑に組み込まれたプリセプツの陣を前に手を止めるアーリアが二人へと視線を向けていた。
「ティマ、どうかしたの?」
「いえ、大したことじゃないんだけど……。その、アーリアさん、大丈夫かなと思って」
「ふふ、ありがとう。でもご覧の通りよ。今は一刻も早く、これを完成させなければならないもの」
穏やかに笑うアーリアの表情は、無理をしているようなものではなかった。どうやらティマの心配は杞憂に済んだようで、彼女はその様子に胸を撫で下ろした。
それからティマはルキウスに促されるままにベッドの端に腰かけ、作業を再開させた二人の様子をしばらく眺めていた。
「……完成させたそのプリセプツを、白晶岩の欠片を使って私が発動させれば、全ての決着がつくんですよね?」
「ああ。……『生命の法』もそうだけど、『冥府の法』も人の想いを踏みにじるものだ。絶対に終わらせなければいけない」
「ええ。もう誰にも、こんな想いをさせないためにも……」
そしてぽつりとこぼした呟きに、二人は並々ならぬ想いを秘めながら応えた。それを聞いて、ティマはここへ来たもうひとつの要件を、意を決したように口に出した。
「ルキウス、アーリアさん。相談があるの」
その少女の声に、二人は静かに耳を傾けた。