第17章 約束の場所の誓い W
大人たちがすでにロインの笑顔を見ることを諦めた中、ティマだけが彼に飽きることなく迫り、その度に冷たくあしらわれる。そんな日々が続いた、ある日のことだった。
「ねえ、ロインくんってば! 荷物持ち手伝うって! 聞いてるのー?」
「……」
「もう! 無視しないでってばー! ねえー?」
その日、ロインはいつものようにドーチェに買い出しを任され、ふてくされた顔で町を歩いていた。その後ろをティマが小走りでついて歩く。二人の間にある空気は子どもながらに殺伐としていて、しかし大人が容易く間に割って入れるほど可愛らしいものでもなかった。
「もう! 返事くらいしてってば!」
そんな険悪な雰囲気が漂う中、ティマは負けじと、果敢にもロインの肩に手を伸ばす。だがその指先がまさに触れようとした瞬間、鋭い眼光が彼女を襲った。
「うるせえんだよ、リカンツもどき!」
「……へ?」
同時に投げつけられた罵倒。刹那、ティマは言われた内容を飲みこむまでに時差が生じたように、呆然とした顔で立ち止まった。ロインはその様子に気付くと、嘲笑するように鼻を鳴らした。
「はっ! オレが知らないとでも思ってたのかよ? お前、ヒトのくせにリカンツが親なんだろ? 半端モンのくせして、近付くんじゃねえよ――っ!」
そしてここぞとばかりに、少女を傷つける言葉を意図して吐き捨てた。
だが、最後まで言い終わる寸前に、彼はガッと胸倉をつかまれた。気付けばキッと睨みつける赤茶の瞳が目の前にあり、ロインは背丈の違いから、自然とティマに引き寄せられる体勢になっていた。
「……取り消して」
低い声だった。
いつも明るく少女らしい高い元気な声しか聞いたことのない彼女から出たのは、まるで憎悪に染まったような低い声だった。
「はっ! なんだよ? 癪に障ったか?」
三ヶ月間つきまとい、つきまとわれ続けて、彼が彼女の逆鱗に触れたのはきっとこれが初めてだったに違いない。気味が良いというように、ロインの口端が嘲るように歪む。
だが、返ってきた言葉は、彼が期待したものと少し違っていた。
「そうよ。リカンツって言ったこと、取り消して!」
マリワナを養母に持つティマにとって、彼女たちを侮蔑する意を持つその言葉は聞き捨てならないものだった。バカにされたのは彼女自身だというのに、ティマはどこまでも自分よりも他人を思いやった。彼女らしい、優しさゆえの怒りだった。
しかし、日ごろからティマに反発していたロインが、素直に謝るはずもなかった。それどころか面白くなさそうに舌を打ち、乱暴に彼女を突き飛ばした。
「きゃあ!」
「誰がするか、そんなこと」
その拍子に、ティマの身体は思い切り地面に投げ出されてしまった。それでもロインは全く構うことなく、苛立ちを隠すことなく背を向けようとした。
「あったまきた……!」
だがその時、地を這うような声が耳に届いた。顔だけで振り返れば、ティマは服についた汚れをほろうこともせずにゆらりと立ち上がっていた。
「ティマ・コレンドは、ロイン・エイバスに決闘を申し込む!!」
そして直後、彼女はびしっとロインを指差し、叫ぶように宣戦布告した。
「私が勝ったら、さっきの言葉取り消してもらうんだから!」
「……いいぜ。そのかわり、オレが勝ったら二度と関わるな!」
どれだけひどく突き離しても、その度に食いついてくる。そんな彼女が、とことん気にくわなかった。だからロインは、わざわざバカげた茶番に付き合うつもりもないと、踵を返そうとした。
しかし、直後の彼女の言葉に、彼は足を止めた。これはむしろ好機かもしれない。鬱陶しくてたまらなかった彼女を完膚なきまでに叩きのめすこともできるなら、一石二鳥だ。そう思ったロインは、ティマを睨みつけながら返事をした。
するとティマは、数歩駆け出すようにして彼から離れると、何かを頭上に掲げた。
「明日の正午、広場で待つ! 来なかったら“コレ”、返してあげないんだから!」
大声でそれだけ告げると、ティマは完全に背を向けて走り去っていってしまった。
一方、ロインはそれどころではなかった。少女が手にしていた物を見て、まさかと慌てて服の内側を覗き込む。すると、いつも首から下げていたはずのペンダントが――母の形見であり、あの日以来ずっと彼が守り続けていた物だ――そこから失くなっているではないか。
「あいつ……殺してやる!」
奪われた。
いつの間に、などと考える余地はすでにロインから失われていた。
奪われた!
ただその事実に、翡翠はこれまでにない殺気で満ち溢れたのだった。
海に星空が浮かんでいる。波が揺らめく度に形を変える月を眺めるロインが佇んでいたのは、灯台下の崖にある洞穴の中。
――そういえば、前にここで待っていたのはティマだったな。
ふとそんなことを思い出せば、またしても数珠つなぎに記憶が次々と彼の脳裏を駆けていく。
「ロインー? 来たよー」
そしてこの場所に関わる最古の記憶が再生されると、彼はフッと微笑をこぼした。ティマの伺うような声が飛び込んできたのは、ちょうどその時だった。
「どうかした?」
「いや。……ちょっと思い出してた。初めてここで『約束』した日のことを」
「ああ。……くす」
「何笑ってんだ?」
「ううん。あの頃のロイン、荒んでたなぁと思って」
悪かったなと、ロインは投げやりに返す。その受け答えにティマはまた声を上げて笑い、彼の隣へやって来て腰を下ろした。ロインはどこか納得してない様子だったが、諦めたように息を吐くと彼女と同様に腰を下ろし、視線を海へと向けたのだった。
「それで、何か話があったんじゃないの?」
「ああ」
わざわざここへ呼び出してまでする話だ。ティマは一体何を言われるのかと妙にドキドキしながら、その時を待った。そして、ロインは静かに口を開いた。
「グレイシャッド・マドネス、習得できそうか?」
「……え? まさかと思うけど、そんなことで呼び出したの?」
ティマは思わず目をぱちくりさせた。だが、ロインは至って真面目な顔をしている。どうやら本気のようだ。
「あの本を貰った時のティマ、すごく怯えた様子だったから。お前には『冥府の法』を閉じるっていう重要な役割もあるんだ。無理はするなよ? オレにだって、三騎士の剣技っていう武器がある。だから――」
そこまで話したところで、ロインは思わず言葉を止めた。自分は至って真面目に尋ねていたというに、気がつけば、ティマは微笑をこぼしていたのだ。
強力なプリセプツを扱う危険性を、彼女はすでに身を持って経験している。それだけに、ロインはあの時不安そうにしていたティマの姿が気になって仕方なかったのだろう。いくらこの先必要な力だと言われようが、彼は彼女が無理だというのなら、その意を汲もうとしていた。そして、その分の力は自分が補ってみせると。
ロインがわざわざここへ呼び出したのは、どうやらマリワナやカイウス達を気にせずに彼女が本音を出せるようにと気遣ってのことのようだ。ティマはそれが伝わり、純粋に嬉しく思い、くすぐったい気持ちになっていただけだった。
「なんだよ?」
だが、ロインからすればティマが笑いだした理由なんてわからないのだから、当然その反応は面白くない。怪訝な表情で問えば、ティマはまだくすくすと笑いをこぼしながら首を横に振った。
だがその直後になって、ふと彼女は表情を曇らせた。
「ねえ、ロイン。そうやって言ってくれるのも、『約束』のせい?」
それは、この場所で起きた出来事を思い出したから。ティマは切なそうな、苦しそうな表情でロインを見つめて言った。
「ねえ、ロインくんってば! 荷物持ち手伝うって! 聞いてるのー?」
「……」
「もう! 無視しないでってばー! ねえー?」
その日、ロインはいつものようにドーチェに買い出しを任され、ふてくされた顔で町を歩いていた。その後ろをティマが小走りでついて歩く。二人の間にある空気は子どもながらに殺伐としていて、しかし大人が容易く間に割って入れるほど可愛らしいものでもなかった。
「もう! 返事くらいしてってば!」
そんな険悪な雰囲気が漂う中、ティマは負けじと、果敢にもロインの肩に手を伸ばす。だがその指先がまさに触れようとした瞬間、鋭い眼光が彼女を襲った。
「うるせえんだよ、リカンツもどき!」
「……へ?」
同時に投げつけられた罵倒。刹那、ティマは言われた内容を飲みこむまでに時差が生じたように、呆然とした顔で立ち止まった。ロインはその様子に気付くと、嘲笑するように鼻を鳴らした。
「はっ! オレが知らないとでも思ってたのかよ? お前、ヒトのくせにリカンツが親なんだろ? 半端モンのくせして、近付くんじゃねえよ――っ!」
そしてここぞとばかりに、少女を傷つける言葉を意図して吐き捨てた。
だが、最後まで言い終わる寸前に、彼はガッと胸倉をつかまれた。気付けばキッと睨みつける赤茶の瞳が目の前にあり、ロインは背丈の違いから、自然とティマに引き寄せられる体勢になっていた。
「……取り消して」
低い声だった。
いつも明るく少女らしい高い元気な声しか聞いたことのない彼女から出たのは、まるで憎悪に染まったような低い声だった。
「はっ! なんだよ? 癪に障ったか?」
三ヶ月間つきまとい、つきまとわれ続けて、彼が彼女の逆鱗に触れたのはきっとこれが初めてだったに違いない。気味が良いというように、ロインの口端が嘲るように歪む。
だが、返ってきた言葉は、彼が期待したものと少し違っていた。
「そうよ。リカンツって言ったこと、取り消して!」
マリワナを養母に持つティマにとって、彼女たちを侮蔑する意を持つその言葉は聞き捨てならないものだった。バカにされたのは彼女自身だというのに、ティマはどこまでも自分よりも他人を思いやった。彼女らしい、優しさゆえの怒りだった。
しかし、日ごろからティマに反発していたロインが、素直に謝るはずもなかった。それどころか面白くなさそうに舌を打ち、乱暴に彼女を突き飛ばした。
「きゃあ!」
「誰がするか、そんなこと」
その拍子に、ティマの身体は思い切り地面に投げ出されてしまった。それでもロインは全く構うことなく、苛立ちを隠すことなく背を向けようとした。
「あったまきた……!」
だがその時、地を這うような声が耳に届いた。顔だけで振り返れば、ティマは服についた汚れをほろうこともせずにゆらりと立ち上がっていた。
「ティマ・コレンドは、ロイン・エイバスに決闘を申し込む!!」
そして直後、彼女はびしっとロインを指差し、叫ぶように宣戦布告した。
「私が勝ったら、さっきの言葉取り消してもらうんだから!」
「……いいぜ。そのかわり、オレが勝ったら二度と関わるな!」
どれだけひどく突き離しても、その度に食いついてくる。そんな彼女が、とことん気にくわなかった。だからロインは、わざわざバカげた茶番に付き合うつもりもないと、踵を返そうとした。
しかし、直後の彼女の言葉に、彼は足を止めた。これはむしろ好機かもしれない。鬱陶しくてたまらなかった彼女を完膚なきまでに叩きのめすこともできるなら、一石二鳥だ。そう思ったロインは、ティマを睨みつけながら返事をした。
するとティマは、数歩駆け出すようにして彼から離れると、何かを頭上に掲げた。
「明日の正午、広場で待つ! 来なかったら“コレ”、返してあげないんだから!」
大声でそれだけ告げると、ティマは完全に背を向けて走り去っていってしまった。
一方、ロインはそれどころではなかった。少女が手にしていた物を見て、まさかと慌てて服の内側を覗き込む。すると、いつも首から下げていたはずのペンダントが――母の形見であり、あの日以来ずっと彼が守り続けていた物だ――そこから失くなっているではないか。
「あいつ……殺してやる!」
奪われた。
いつの間に、などと考える余地はすでにロインから失われていた。
奪われた!
ただその事実に、翡翠はこれまでにない殺気で満ち溢れたのだった。
海に星空が浮かんでいる。波が揺らめく度に形を変える月を眺めるロインが佇んでいたのは、灯台下の崖にある洞穴の中。
――そういえば、前にここで待っていたのはティマだったな。
ふとそんなことを思い出せば、またしても数珠つなぎに記憶が次々と彼の脳裏を駆けていく。
「ロインー? 来たよー」
そしてこの場所に関わる最古の記憶が再生されると、彼はフッと微笑をこぼした。ティマの伺うような声が飛び込んできたのは、ちょうどその時だった。
「どうかした?」
「いや。……ちょっと思い出してた。初めてここで『約束』した日のことを」
「ああ。……くす」
「何笑ってんだ?」
「ううん。あの頃のロイン、荒んでたなぁと思って」
悪かったなと、ロインは投げやりに返す。その受け答えにティマはまた声を上げて笑い、彼の隣へやって来て腰を下ろした。ロインはどこか納得してない様子だったが、諦めたように息を吐くと彼女と同様に腰を下ろし、視線を海へと向けたのだった。
「それで、何か話があったんじゃないの?」
「ああ」
わざわざここへ呼び出してまでする話だ。ティマは一体何を言われるのかと妙にドキドキしながら、その時を待った。そして、ロインは静かに口を開いた。
「グレイシャッド・マドネス、習得できそうか?」
「……え? まさかと思うけど、そんなことで呼び出したの?」
ティマは思わず目をぱちくりさせた。だが、ロインは至って真面目な顔をしている。どうやら本気のようだ。
「あの本を貰った時のティマ、すごく怯えた様子だったから。お前には『冥府の法』を閉じるっていう重要な役割もあるんだ。無理はするなよ? オレにだって、三騎士の剣技っていう武器がある。だから――」
そこまで話したところで、ロインは思わず言葉を止めた。自分は至って真面目に尋ねていたというに、気がつけば、ティマは微笑をこぼしていたのだ。
強力なプリセプツを扱う危険性を、彼女はすでに身を持って経験している。それだけに、ロインはあの時不安そうにしていたティマの姿が気になって仕方なかったのだろう。いくらこの先必要な力だと言われようが、彼は彼女が無理だというのなら、その意を汲もうとしていた。そして、その分の力は自分が補ってみせると。
ロインがわざわざここへ呼び出したのは、どうやらマリワナやカイウス達を気にせずに彼女が本音を出せるようにと気遣ってのことのようだ。ティマはそれが伝わり、純粋に嬉しく思い、くすぐったい気持ちになっていただけだった。
「なんだよ?」
だが、ロインからすればティマが笑いだした理由なんてわからないのだから、当然その反応は面白くない。怪訝な表情で問えば、ティマはまだくすくすと笑いをこぼしながら首を横に振った。
だがその直後になって、ふと彼女は表情を曇らせた。
「ねえ、ロイン。そうやって言ってくれるのも、『約束』のせい?」
それは、この場所で起きた出来事を思い出したから。ティマは切なそうな、苦しそうな表情でロインを見つめて言った。