外伝5 朝焼けの手記 T
またロイン君が剣を抜いた。
相手は人気のない山道で声をかけてきた行商人の方だ。彼はただ、僕たちの行き先に興味を持って話しかけてきただけだったのに、ひどく驚かせてしまった。彼に申し訳ないと思う一方で、どうしたらロイン君の心を救ってやれるだろうかと思う。父親として情けない。
パタンと手帳を閉じ、ドーチェは布団の中で丸まるように眠っているロインに目を向けた。その寝顔は決して穏やかではない。時折夢にうなされ、脂汗を掻きながら飛び起きることも、ここ最近では珍しくなかった。
まるで家族のようだった青年に裏切られたあの日以来、わんぱくで人懐っこい笑顔を浮かべていた息子は、すっかり人が変わってしまったようだった。錯乱し、憔悴しきっていたその後の数日間に比べれば、これでもだいぶ立ち直ってきた方ではあるけれど。
ただ、売買においては事情が異なるようで、ロインは以前と変わらず手伝いをこなしていた。さりげなく理由を聞いてみたところ、正当な代価を支払って行われるやり取りであるため、不安が少ないのだそうだ。けれどそれは売買という「契約」「取引」という事象に対してのみに通用することらしく、「商人」に対しては警戒心むき出しの状態だった。
ドーチェはそんなロインを哀れに思いこそすれど、全ての引き金である青年を憎もうとは思えないでいた。
最愛の妻すら失い、当然悲しみに暮れることはあった。だがそれでも、彼の性分なのか、それとも他に思うところがあったのか、憎しみという感情だけは湧いてこなかったのだ。
しかし、彼らは変わり果てた青年から逃げなければならなかった。本人に直接追いつかれたことはまだないが、どこから情報が伝わるかわからない。見つかってしまえば、彼女が死しても守ろうとした形見を奪われてしまう。それが何を意味するかはわからないが、彼女のように対抗できる力のない二人には、今は「逃げる」という手段を選ぶしかなかった。
ドーチェはロインにおやすみを告げ、この日も初めて見る天井を眺め眠りについたのだった。
あの日からもうすぐ一年が経つ。できればグレシアさんの墓に花を供えたいけれど、きっと難しいだろう。
マウディーラ島はほとんど廻ってしまった。兵士に見つかることなく安心して暮らせそうな町には、まだ出会えていない。ロイン君も周囲に対して心を閉ざす一方で、最近は警戒するどころか関心を向けることすらしなくなってきてしまった。
……どちらも、そろそろどうにかしなければ。
「父さん、そろそろ出よう」
手帳に最後の一文字を書き終えたのと、ロインが声をかけたのはほぼ同時だった。ドーチェは時計へと目を向け、もうこんな時間なのかと目をしばたたかせた。
「すみません、ロイン君。行きましょうか」
言って、ドーチェは手帳をかばんの中にしまい、先行く息子の後を追って出た。
今彼らがいるのは、マウディーラの西に位置する港町だった。商船が盛んに行き交い、人も多く賑わっている。ドーチェとロインは人混みに紛れながら、特に目的地もないままふらふらと歩いていた。現在彼らの天敵であるその姿はないかと、少しの警戒を残しながら。
「さて、この後はどこへ行きましょうか?」
「どこでもいい。アイツがいなければいないだし、いれば――殺すだけだ」
その会話は、まるで旅の続きを尋ねるような口調だった。だが、ロインから出たのは抑揚のない物騒な返事。それにドーチェは少し困ったように微笑みながら、港へと目を向けた。
めぼしい陸路はほとんど通ってしまった。島を出るのもいいかもしれない。
不謹慎だと自覚しながらも、まるで旅行中のような気分でドーチェは考えた。すると、次にしなければならないことがどんどんと頭に浮かんでくる。
「では、たまには適当な船を見つけて船旅でもしましょうか。僕は船を手配してくるので、ロイン君はその間に、船上で食べるご飯の調達をお願いできますか?」
「わかった」
そのうちのひとつの役割をロインに与えると、ドーチェは適当な時間と場所を決め、しばし自由行動とした。
思えば、あれが僕らの命運を決める会話だったのかもしれない。
宛てがわれた船内の一室で、揺れる手元にやや苦戦しながら書き出す。手元と照らす灯りの下で、ドーチェはロインの寝顔を横目に、続きを書こうと記憶を手繰らせながら手を動かした。
相手は人気のない山道で声をかけてきた行商人の方だ。彼はただ、僕たちの行き先に興味を持って話しかけてきただけだったのに、ひどく驚かせてしまった。彼に申し訳ないと思う一方で、どうしたらロイン君の心を救ってやれるだろうかと思う。父親として情けない。
パタンと手帳を閉じ、ドーチェは布団の中で丸まるように眠っているロインに目を向けた。その寝顔は決して穏やかではない。時折夢にうなされ、脂汗を掻きながら飛び起きることも、ここ最近では珍しくなかった。
まるで家族のようだった青年に裏切られたあの日以来、わんぱくで人懐っこい笑顔を浮かべていた息子は、すっかり人が変わってしまったようだった。錯乱し、憔悴しきっていたその後の数日間に比べれば、これでもだいぶ立ち直ってきた方ではあるけれど。
ただ、売買においては事情が異なるようで、ロインは以前と変わらず手伝いをこなしていた。さりげなく理由を聞いてみたところ、正当な代価を支払って行われるやり取りであるため、不安が少ないのだそうだ。けれどそれは売買という「契約」「取引」という事象に対してのみに通用することらしく、「商人」に対しては警戒心むき出しの状態だった。
ドーチェはそんなロインを哀れに思いこそすれど、全ての引き金である青年を憎もうとは思えないでいた。
最愛の妻すら失い、当然悲しみに暮れることはあった。だがそれでも、彼の性分なのか、それとも他に思うところがあったのか、憎しみという感情だけは湧いてこなかったのだ。
しかし、彼らは変わり果てた青年から逃げなければならなかった。本人に直接追いつかれたことはまだないが、どこから情報が伝わるかわからない。見つかってしまえば、彼女が死しても守ろうとした形見を奪われてしまう。それが何を意味するかはわからないが、彼女のように対抗できる力のない二人には、今は「逃げる」という手段を選ぶしかなかった。
ドーチェはロインにおやすみを告げ、この日も初めて見る天井を眺め眠りについたのだった。
あの日からもうすぐ一年が経つ。できればグレシアさんの墓に花を供えたいけれど、きっと難しいだろう。
マウディーラ島はほとんど廻ってしまった。兵士に見つかることなく安心して暮らせそうな町には、まだ出会えていない。ロイン君も周囲に対して心を閉ざす一方で、最近は警戒するどころか関心を向けることすらしなくなってきてしまった。
……どちらも、そろそろどうにかしなければ。
「父さん、そろそろ出よう」
手帳に最後の一文字を書き終えたのと、ロインが声をかけたのはほぼ同時だった。ドーチェは時計へと目を向け、もうこんな時間なのかと目をしばたたかせた。
「すみません、ロイン君。行きましょうか」
言って、ドーチェは手帳をかばんの中にしまい、先行く息子の後を追って出た。
今彼らがいるのは、マウディーラの西に位置する港町だった。商船が盛んに行き交い、人も多く賑わっている。ドーチェとロインは人混みに紛れながら、特に目的地もないままふらふらと歩いていた。現在彼らの天敵であるその姿はないかと、少しの警戒を残しながら。
「さて、この後はどこへ行きましょうか?」
「どこでもいい。アイツがいなければいないだし、いれば――殺すだけだ」
その会話は、まるで旅の続きを尋ねるような口調だった。だが、ロインから出たのは抑揚のない物騒な返事。それにドーチェは少し困ったように微笑みながら、港へと目を向けた。
めぼしい陸路はほとんど通ってしまった。島を出るのもいいかもしれない。
不謹慎だと自覚しながらも、まるで旅行中のような気分でドーチェは考えた。すると、次にしなければならないことがどんどんと頭に浮かんでくる。
「では、たまには適当な船を見つけて船旅でもしましょうか。僕は船を手配してくるので、ロイン君はその間に、船上で食べるご飯の調達をお願いできますか?」
「わかった」
そのうちのひとつの役割をロインに与えると、ドーチェは適当な時間と場所を決め、しばし自由行動とした。
思えば、あれが僕らの命運を決める会話だったのかもしれない。
宛てがわれた船内の一室で、揺れる手元にやや苦戦しながら書き出す。手元と照らす灯りの下で、ドーチェはロインの寝顔を横目に、続きを書こうと記憶を手繰らせながら手を動かした。