外伝5 朝焼けの手記 U
解散して間もなく、ドーチェはしまったと眉をひそめた。
店が立ち並ぶ道の途中、とある店の前がやけに騒がしかった。それは商店特有の人の賑わいとは異なる温度で、野次馬の表情もどこか慌てていた。何があったのかはわからない。ただ、自分の息子が騒ぎの中心にいることだけを理解した。おそらく彼の人嫌いが禍いしたのだろうと見当をつけ、ドーチェは急いで騒ぎを鎮めようと中心へ向かっていった。
その時だ。
「おいおい。一体どうしたってんだ?」
彼よりも一足早く、体格の良い赤髪の男が仲裁に入った。
「ヴァニアスの旦那! いや、それが、ただ話をしていただけなのに、突然この子が剣を抜いて……」
「ほう?」
答えたのは騒ぎの中心人物だろうか。商売人らしいその男は、ヴァニアスと呼んだ赤髪の男へ簡潔にあらましを伝えた。それにヴァニアスが目を細めるも、ロインはまったく動じた素振りを見せない。ギラギラと殺気に似たオーラを翡翠に宿したまま相手を睨んでいる。
「すみません! 息子が失礼をしたようで……」
そこへ、ようやくドーチェが顔を出すことができた。三人の――ついでに野次馬たちの――視線は一斉に彼へと向いた。
すると、ロインはもう一度相手を威嚇するように一瞥した後、ふんと鼻を鳴らしながら剣を収めた。そのままふらっとどこかへ足を向けていってしまった彼に代わって、ドーチェは男から話を聞き、こちらの事情も簡単に伝えることとなった。
話によると、ロインはドーチェの言いつけ通り買い物をしていたところ、この男が声をかけてきたらしい。どうやらそのまま「どこから来たのか」「どこへ行くのか」「一人でいるのか」など彼の事情を尋ね始めてしまったようで、それがロインの抜刀の理由のようだった。
「ああ、なるほど。それで不審に思われたってわけか」
「とはいえ、安易に人に剣を向けていいわけではありません。申し訳ありませんでした」
幸い、男は話のわかる人物だった。謝罪するドーチェに頭を下げなくても良いと言い、去り際に「悪かったな」と彼も一言残していった。それにほっと息を吐くと、ドーチェは最初に仲裁に来た男に向き直った。
「あなたにもご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「なぁに、気にすんな。俺はヴァニアス・オーバック。海上ギルド『女神の従者(マリアのしもべ)』を率いてるもんだ」
「ドーチェ・エイバスです。どうもお世話になりました」
男は言葉通り、豪快な笑い声を上げて答えた。その様子にドーチェもほっとした様子で微笑を浮かべ、名乗る。すると、ヴァニアスの目の色が変わった。
「エイバス……。ひょっとして、ウルノアの嬢さんの知り合いか?」
「妻をご存知で?」
今度はドーチェが目を丸くする番だった。そして、思わず滑らした自身の発言にはっとする。現在彼らが置かれている状況からすれば、これしきの世間話ですら危うくすれば命に関わる問答なのだ。ドーチェはひやりとする内心を悟られぬよう努め、ヴァニアスの次の言葉を待った。
「まあ、ちょっとした案件で仕事を手伝ってもらっててな。そういや最近音沙汰がないようだけど、元気なのか?」
「……亡くなりました」
「まさか! あの『ウルノア』が?」
無邪気に尋ねる彼から悪意は感じない。ドーチェが意を決して告げると、ヴァニアスは信じられないと目を丸くしていた。その様子は演技には見えず、どうやら本当に何があったのか知らないようだった。
彼は信頼に足ると考えて良いようだと、次の瞬間、ドーチェは思った。
(……人のことは、言えないみたいですね)
さらに次の瞬間には、彼はそう、息子ほどではないにしろ疑心暗鬼になっている自身に心のうちで嘲笑していた。
一方、そんなことを知る由もないヴァニアスは顔色を変え、顎に手を添える仕草をしている。
「まずいな……。さてはあの爺さん、気づいて手を回しやがったか?」
そして無意識にか、注意すれば聞こえそうな声量で、彼は心の内をこぼしていた。つい聞こえてしまったドーチェは何のことかと首を傾げ、彼に無言で尋ねかけた。
その視線に気づいたのだろう。ヴァニアスはしばし難しい顔で考えていたが、やがて決心したように腕を下ろした。
「ひとついいか? ケノンに住んでるあんた達がこんな離れた町にいるのは、なにか訳ありか?」
「……ええ」
「そうか。なら――」
「おーい、親父ー!」
そして両者ともそれまでよりも低いトーンで言葉を交わした、その時だった。港の方から大声を上げる子どもの声がした。思わず振り向いた二人の視線の先にいたのは、ヴァニアスと同じ赤髪をした、ロインと同じ年頃の女の子だった。彼女は人を探すように彷徨わせていた視線をある一点で定めると、その対象に向かって一気に駆け寄った。
睨むような目つきでその大きな赤い瞳を向けた対象は、のんきに少女に向けて片手を上げているヴァニアスだった。
「親父! なにこんなところで油売ってんだよ!」
「……娘さんですか?」
「まあな。……そうだ!」
開口一番怒声を浴びせる少女の勢いに、ドーチェは思わず目を丸くした。呆然とした表情のままヴァニアスへと訪ねれば、彼は直後、いたずらを思いついた子どもの表情になった。
一体何を思いついたのかと、ドーチェと少女の視線がヴァニアスへと向く。
「ラミー。イーバオ行きのチケットを二枚手配してこい。大人と子ども、一枚ずつな」
「はぁ?」
「客だ、客! ほれ、これで買ってこい!」
「ったく、人使いがあらいんだから、もう! いいけど、ツヴァイが呼んでたぜ! さっさと行ってやれよ!」
怪訝そうな二人を差し置き、ヴァニアスは一人で勝手に話を進めていく。さらには親子でどんどん会話を続けていってしまって、ドーチェはますます呆然と固まってしまった。
そのまま成り行きを見守っていると、ヴァニアスはガルドをひと握り持たせて、彼女の背を押し出すように送り出した。少女は終始乱暴な言葉遣いで、それでもしっかりと要件を伝えてから足早に去っていったのだった。
「少し時間もらえるかい? そっちの事情もそうだが、こっちの事情もちぃっとばかし耳に入れといてほしくてな」
その背がすっかり小さくなったのを確かめると、ヴァニアスは再び声のトーンを落とした。少女の登場によって中断された話の続き、ということらしい。ドーチェも顔つきを変えると、紅をまっすぐ見据え、静かに首を振った。
これまで八年間、大切なものを隠し続けた町がある。それは目に見えるものでありながら、彼らが敵とする相手の手にまだ落ちていないという。そのことから、おそらくこのまま逃げ続ける生活を送るよりも、その町に移った方がとりあえずは安全だろうということ。そしてその方が、彼の望む時期が訪れた時に“こと”が起こしやすいと……。
ヴァニアスさんは、全ては語ってくれなかった。僕自身も全てを話したわけではないから、おあいこだろう。
それでも、僕はその賭けに乗ることにした。
それがロイン君のためにもなればと。亡くなったグレシアさんの遺志に沿うものなら、と。
「う、ん……」
「目が覚めましたか? ロイン君」
ドーチェはちょうど書き終えた手帳を荷物にしまい、朝日に照らされて眩しそうに身じろぐ息子に声をかけた。
今日は珍しく、穏やかな目覚めだったようだ。まだ眠そうに目元をこする仕草は、年相応の少年に戻ったよう。
「さあ、支度をしてください。今日は港にようやく到着するそうですよ」
「そう。そしたら、次はどこに行くの?」
ドーチェは穏やかな笑みを浮かべながらも、少し張り切っているようだった。それを感じ取ったロインは、それを不思議に思いながらいつもと変わらぬ問いかけをした。
ドーチェは彼を一瞥した後、窓の外に見える陸を見つめながら答えた。
「僕たちの、新しい家に、です」
店が立ち並ぶ道の途中、とある店の前がやけに騒がしかった。それは商店特有の人の賑わいとは異なる温度で、野次馬の表情もどこか慌てていた。何があったのかはわからない。ただ、自分の息子が騒ぎの中心にいることだけを理解した。おそらく彼の人嫌いが禍いしたのだろうと見当をつけ、ドーチェは急いで騒ぎを鎮めようと中心へ向かっていった。
その時だ。
「おいおい。一体どうしたってんだ?」
彼よりも一足早く、体格の良い赤髪の男が仲裁に入った。
「ヴァニアスの旦那! いや、それが、ただ話をしていただけなのに、突然この子が剣を抜いて……」
「ほう?」
答えたのは騒ぎの中心人物だろうか。商売人らしいその男は、ヴァニアスと呼んだ赤髪の男へ簡潔にあらましを伝えた。それにヴァニアスが目を細めるも、ロインはまったく動じた素振りを見せない。ギラギラと殺気に似たオーラを翡翠に宿したまま相手を睨んでいる。
「すみません! 息子が失礼をしたようで……」
そこへ、ようやくドーチェが顔を出すことができた。三人の――ついでに野次馬たちの――視線は一斉に彼へと向いた。
すると、ロインはもう一度相手を威嚇するように一瞥した後、ふんと鼻を鳴らしながら剣を収めた。そのままふらっとどこかへ足を向けていってしまった彼に代わって、ドーチェは男から話を聞き、こちらの事情も簡単に伝えることとなった。
話によると、ロインはドーチェの言いつけ通り買い物をしていたところ、この男が声をかけてきたらしい。どうやらそのまま「どこから来たのか」「どこへ行くのか」「一人でいるのか」など彼の事情を尋ね始めてしまったようで、それがロインの抜刀の理由のようだった。
「ああ、なるほど。それで不審に思われたってわけか」
「とはいえ、安易に人に剣を向けていいわけではありません。申し訳ありませんでした」
幸い、男は話のわかる人物だった。謝罪するドーチェに頭を下げなくても良いと言い、去り際に「悪かったな」と彼も一言残していった。それにほっと息を吐くと、ドーチェは最初に仲裁に来た男に向き直った。
「あなたにもご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「なぁに、気にすんな。俺はヴァニアス・オーバック。海上ギルド『女神の従者(マリアのしもべ)』を率いてるもんだ」
「ドーチェ・エイバスです。どうもお世話になりました」
男は言葉通り、豪快な笑い声を上げて答えた。その様子にドーチェもほっとした様子で微笑を浮かべ、名乗る。すると、ヴァニアスの目の色が変わった。
「エイバス……。ひょっとして、ウルノアの嬢さんの知り合いか?」
「妻をご存知で?」
今度はドーチェが目を丸くする番だった。そして、思わず滑らした自身の発言にはっとする。現在彼らが置かれている状況からすれば、これしきの世間話ですら危うくすれば命に関わる問答なのだ。ドーチェはひやりとする内心を悟られぬよう努め、ヴァニアスの次の言葉を待った。
「まあ、ちょっとした案件で仕事を手伝ってもらっててな。そういや最近音沙汰がないようだけど、元気なのか?」
「……亡くなりました」
「まさか! あの『ウルノア』が?」
無邪気に尋ねる彼から悪意は感じない。ドーチェが意を決して告げると、ヴァニアスは信じられないと目を丸くしていた。その様子は演技には見えず、どうやら本当に何があったのか知らないようだった。
彼は信頼に足ると考えて良いようだと、次の瞬間、ドーチェは思った。
(……人のことは、言えないみたいですね)
さらに次の瞬間には、彼はそう、息子ほどではないにしろ疑心暗鬼になっている自身に心のうちで嘲笑していた。
一方、そんなことを知る由もないヴァニアスは顔色を変え、顎に手を添える仕草をしている。
「まずいな……。さてはあの爺さん、気づいて手を回しやがったか?」
そして無意識にか、注意すれば聞こえそうな声量で、彼は心の内をこぼしていた。つい聞こえてしまったドーチェは何のことかと首を傾げ、彼に無言で尋ねかけた。
その視線に気づいたのだろう。ヴァニアスはしばし難しい顔で考えていたが、やがて決心したように腕を下ろした。
「ひとついいか? ケノンに住んでるあんた達がこんな離れた町にいるのは、なにか訳ありか?」
「……ええ」
「そうか。なら――」
「おーい、親父ー!」
そして両者ともそれまでよりも低いトーンで言葉を交わした、その時だった。港の方から大声を上げる子どもの声がした。思わず振り向いた二人の視線の先にいたのは、ヴァニアスと同じ赤髪をした、ロインと同じ年頃の女の子だった。彼女は人を探すように彷徨わせていた視線をある一点で定めると、その対象に向かって一気に駆け寄った。
睨むような目つきでその大きな赤い瞳を向けた対象は、のんきに少女に向けて片手を上げているヴァニアスだった。
「親父! なにこんなところで油売ってんだよ!」
「……娘さんですか?」
「まあな。……そうだ!」
開口一番怒声を浴びせる少女の勢いに、ドーチェは思わず目を丸くした。呆然とした表情のままヴァニアスへと訪ねれば、彼は直後、いたずらを思いついた子どもの表情になった。
一体何を思いついたのかと、ドーチェと少女の視線がヴァニアスへと向く。
「ラミー。イーバオ行きのチケットを二枚手配してこい。大人と子ども、一枚ずつな」
「はぁ?」
「客だ、客! ほれ、これで買ってこい!」
「ったく、人使いがあらいんだから、もう! いいけど、ツヴァイが呼んでたぜ! さっさと行ってやれよ!」
怪訝そうな二人を差し置き、ヴァニアスは一人で勝手に話を進めていく。さらには親子でどんどん会話を続けていってしまって、ドーチェはますます呆然と固まってしまった。
そのまま成り行きを見守っていると、ヴァニアスはガルドをひと握り持たせて、彼女の背を押し出すように送り出した。少女は終始乱暴な言葉遣いで、それでもしっかりと要件を伝えてから足早に去っていったのだった。
「少し時間もらえるかい? そっちの事情もそうだが、こっちの事情もちぃっとばかし耳に入れといてほしくてな」
その背がすっかり小さくなったのを確かめると、ヴァニアスは再び声のトーンを落とした。少女の登場によって中断された話の続き、ということらしい。ドーチェも顔つきを変えると、紅をまっすぐ見据え、静かに首を振った。
これまで八年間、大切なものを隠し続けた町がある。それは目に見えるものでありながら、彼らが敵とする相手の手にまだ落ちていないという。そのことから、おそらくこのまま逃げ続ける生活を送るよりも、その町に移った方がとりあえずは安全だろうということ。そしてその方が、彼の望む時期が訪れた時に“こと”が起こしやすいと……。
ヴァニアスさんは、全ては語ってくれなかった。僕自身も全てを話したわけではないから、おあいこだろう。
それでも、僕はその賭けに乗ることにした。
それがロイン君のためにもなればと。亡くなったグレシアさんの遺志に沿うものなら、と。
「う、ん……」
「目が覚めましたか? ロイン君」
ドーチェはちょうど書き終えた手帳を荷物にしまい、朝日に照らされて眩しそうに身じろぐ息子に声をかけた。
今日は珍しく、穏やかな目覚めだったようだ。まだ眠そうに目元をこする仕草は、年相応の少年に戻ったよう。
「さあ、支度をしてください。今日は港にようやく到着するそうですよ」
「そう。そしたら、次はどこに行くの?」
ドーチェは穏やかな笑みを浮かべながらも、少し張り切っているようだった。それを感じ取ったロインは、それを不思議に思いながらいつもと変わらぬ問いかけをした。
ドーチェは彼を一瞥した後、窓の外に見える陸を見つめながら答えた。
「僕たちの、新しい家に、です」