外伝6 いつか紡ぐ明日へ T
「よし、今日の訓練はここまで」
母さんがそう言って木刀を収めると、オレは耐え切れずに地面にドサッと倒れた。訓練を始めてからはいつものことだったから、母さんは特に気にすることなく、さっさと一人家の中へ入っていった。
毎日毎日、オレに剣を教える母さんは容赦ない。昼食の休憩をはさんでいるとはいっても、結構つらい。まぁ、オレが剣を教えてって頼んでるわけだから、文句は言えないけど。
でも、つらいもんはつらいんだよ!
「うああああ!」
「いでっ!」
「あっ」
「ってて……。ったく、何なんだ? ボサッと倒れてるかと思えば人のこと殴りやがって」
「ご、ごめん。ガルザ」
思いっきり突きだした腕が、ちょうどオレの顔を覗き込んだガルザの顔に当たったみたい。起き上がって顔をしかめるガルザに謝ると、彼はぶっきらぼうな言動で許してくれた。
だけど、何を考えたのか、オレの顔をじっと見たまま動かなくなった。
半年前、母さんに弟子入りしてきたガルザは、時々こうやってオレの顔をじっと見つめ続けることがよくあった。なんだか難しい顔をしているけれど、どんなことを考えているのかまったく見当がつかない。だからその度にどう返せばいいのかわからなくて、オレも困ったようにしばらくガルザとにらめっこをしていた。
けれど、この日は少し違っていた。
「なあ、ロイン。たまには息抜きにでも行くか?」
「息抜き?」
いつもにらめっこの後は何事もなかったように去っていくガルザが、今日はそう提案をしてきた。
「ああ。ケノンの北西にエーク湖って湖があるのは知ってるか?」
「知ってるよ。行ったことはないけど、アスパルーフって木がいっぱいあって、紅葉の少し前の時期になると、白い花を咲かせるんだろ?」
父さんやトルドおじさんが教えてくれたことをそのまま答えれば、ガルザは頷いた。
「見に行かないか?」
「え?」
「だから、アスパルーフ」
どうしてそんなことを言いだしたのかとか、そんなことは考えなかった。ただ単純に好奇心に負けて、オレはガルザと一緒にエルナの森に入り込んだ。
父さんと母さんには、何も言わないできた。町の中と違ってエルナの森は危険で、魔物が出るそんなところに行くって言ったら、きっと許してくれないってガルザが言うから。そのガルザが一緒なんだから、心配なんかいらないと思うんだけどなあ。
「ガルザって今でも十分強いのに、なんで母さんに剣を教わってるんだ?」
エルナの森を進みながら、隣を歩く彼に思ったまま言葉を投げかける。
それはガルザが母さんに弟子入りしたばかりの頃から、ずっと思っていたことだった。もっと不思議なのは、前々から強いとは思っていた母さんが、現役の兵士であるガルザよりもさらに強かったこと。だからガルザに聞けば、もろもろわかるんじゃないかとオレは思った。
「そういうロインはどうなんだ?」
けれど、ガルザは答えをはぐらかした。
それに、まただ。
またあの眼でオレを見ている。
一体ガルザは何を見ているんだろう。考えたところで、今までその答えが見つかった試しはないんだけど。
ガルザはずるいと少しむくれながらも、仕方ないからその質問に答えることにした。
「オレが五歳の時、母さんが町に入り込んだ魔物をやっつけたことがあったんだ。それ見て、すげーって思って! オレもあんなふうに強くなりたいと思ったんだ!」
あの時のことは、今でもはっきり思い出せる。ガルザに話しながら、だんだん興奮した声になっていく自覚があった。
それでも、ガルザからあの眼は消えない。
――一体何なんだよ。
思わず興奮が苛立ちに変わりそうな、その時だった。
「グルルルル……」
「えっ?」
低い唸り声が聞こえた。反射でそちらを向くと、じりじりと近づいてくる狼のような魔物と視線がぶつかった。びっくりして思わず「ひっ!」と悲鳴が上がる。暗い森の中で光る眼がいくつもある光景は迫力があって、とにかく怖いと思った。
「ガ、ガルザ!」
咄嗟に求めた助け。けれど、応えはなかった。
どうしたのかと思ってガルザがいた場所を見ると、そこには誰もいなかった。
「……え?」
途端に頭は真っ白だ。
それからはとにかく必死だった。
ただただ走った。止まったら殺される! もう、それしか考えられない。自分がどこに向かっていたさえ、わからない。
だから突然広がった視界にびっくりして、足がもつれた。「うわぁ!」と勢い余って転がった先にあったのは、透き通った水辺だった。
一体ここはどこ?
ガルザはどこ?
帰りたい!
助けて!
もうそれしか考えられなくて、泣きそうで、体にうまく力が入らない。それでも、魔物は唸り声を上げて近づいてくる。さっきまで暗かった森の中と違って、明るい太陽の下に照らされたこの場所では、牙や爪がやけに鋭く光って見えた。それが余計に怖くて、逃げ出したいのに這いずることしかできない。
後ろには水辺。前には魔物。
絶体絶命と言うには十分すぎる状況なのに、次の瞬間、腕に何かがまとわりつく感覚がした。
「うわあっ!」
気づいた時には、引きずり込まれていた。
何が起きたかわからない。ただ、全身が冷たくて、重たくて、息ができない!
「げほっ! けほっ……うわああああっ!」
投げ出されるように身体が圧迫感を感じた。次の瞬間、口の中が水と空気でぶつかり合って苦しくなる。余裕なんて欠片もないそんな状況でも、両目は何が起きたのかを、オレに必死に伝えてきた。
水の中から飛び出している黒く長い触手。オレを縛り上げて高く持ち上げているそれを目でたどれば、透き通る水には不似合いな黒い塊が沈んでいた。まるで手足のようなそれをいくつも水面上に伸びているから、その不気味な塊が本体――この巨大な魔物の胴の部分なんだとわかった。
そうしているうちに塊も浮上してきて、森から追ってきた狼たちにも腕を伸ばし始めた。ギャンギャンと悲鳴を上げ逃げ惑うそれを無視して、腕は獲物をかっさらうと、巨大な口の中へと放り込んでいった。
あまりにも現実離れした光景。けれど、断末魔の悲鳴と血の匂いが届いた瞬間、はっと現実に引き戻された。同時にオレは、これから待ち受ける未来を確信した。
「……いやだ。だれか……だれか、助けてぇっ!! ガルザぁっ!!」
母さんがそう言って木刀を収めると、オレは耐え切れずに地面にドサッと倒れた。訓練を始めてからはいつものことだったから、母さんは特に気にすることなく、さっさと一人家の中へ入っていった。
毎日毎日、オレに剣を教える母さんは容赦ない。昼食の休憩をはさんでいるとはいっても、結構つらい。まぁ、オレが剣を教えてって頼んでるわけだから、文句は言えないけど。
でも、つらいもんはつらいんだよ!
「うああああ!」
「いでっ!」
「あっ」
「ってて……。ったく、何なんだ? ボサッと倒れてるかと思えば人のこと殴りやがって」
「ご、ごめん。ガルザ」
思いっきり突きだした腕が、ちょうどオレの顔を覗き込んだガルザの顔に当たったみたい。起き上がって顔をしかめるガルザに謝ると、彼はぶっきらぼうな言動で許してくれた。
だけど、何を考えたのか、オレの顔をじっと見たまま動かなくなった。
半年前、母さんに弟子入りしてきたガルザは、時々こうやってオレの顔をじっと見つめ続けることがよくあった。なんだか難しい顔をしているけれど、どんなことを考えているのかまったく見当がつかない。だからその度にどう返せばいいのかわからなくて、オレも困ったようにしばらくガルザとにらめっこをしていた。
けれど、この日は少し違っていた。
「なあ、ロイン。たまには息抜きにでも行くか?」
「息抜き?」
いつもにらめっこの後は何事もなかったように去っていくガルザが、今日はそう提案をしてきた。
「ああ。ケノンの北西にエーク湖って湖があるのは知ってるか?」
「知ってるよ。行ったことはないけど、アスパルーフって木がいっぱいあって、紅葉の少し前の時期になると、白い花を咲かせるんだろ?」
父さんやトルドおじさんが教えてくれたことをそのまま答えれば、ガルザは頷いた。
「見に行かないか?」
「え?」
「だから、アスパルーフ」
どうしてそんなことを言いだしたのかとか、そんなことは考えなかった。ただ単純に好奇心に負けて、オレはガルザと一緒にエルナの森に入り込んだ。
父さんと母さんには、何も言わないできた。町の中と違ってエルナの森は危険で、魔物が出るそんなところに行くって言ったら、きっと許してくれないってガルザが言うから。そのガルザが一緒なんだから、心配なんかいらないと思うんだけどなあ。
「ガルザって今でも十分強いのに、なんで母さんに剣を教わってるんだ?」
エルナの森を進みながら、隣を歩く彼に思ったまま言葉を投げかける。
それはガルザが母さんに弟子入りしたばかりの頃から、ずっと思っていたことだった。もっと不思議なのは、前々から強いとは思っていた母さんが、現役の兵士であるガルザよりもさらに強かったこと。だからガルザに聞けば、もろもろわかるんじゃないかとオレは思った。
「そういうロインはどうなんだ?」
けれど、ガルザは答えをはぐらかした。
それに、まただ。
またあの眼でオレを見ている。
一体ガルザは何を見ているんだろう。考えたところで、今までその答えが見つかった試しはないんだけど。
ガルザはずるいと少しむくれながらも、仕方ないからその質問に答えることにした。
「オレが五歳の時、母さんが町に入り込んだ魔物をやっつけたことがあったんだ。それ見て、すげーって思って! オレもあんなふうに強くなりたいと思ったんだ!」
あの時のことは、今でもはっきり思い出せる。ガルザに話しながら、だんだん興奮した声になっていく自覚があった。
それでも、ガルザからあの眼は消えない。
――一体何なんだよ。
思わず興奮が苛立ちに変わりそうな、その時だった。
「グルルルル……」
「えっ?」
低い唸り声が聞こえた。反射でそちらを向くと、じりじりと近づいてくる狼のような魔物と視線がぶつかった。びっくりして思わず「ひっ!」と悲鳴が上がる。暗い森の中で光る眼がいくつもある光景は迫力があって、とにかく怖いと思った。
「ガ、ガルザ!」
咄嗟に求めた助け。けれど、応えはなかった。
どうしたのかと思ってガルザがいた場所を見ると、そこには誰もいなかった。
「……え?」
途端に頭は真っ白だ。
それからはとにかく必死だった。
ただただ走った。止まったら殺される! もう、それしか考えられない。自分がどこに向かっていたさえ、わからない。
だから突然広がった視界にびっくりして、足がもつれた。「うわぁ!」と勢い余って転がった先にあったのは、透き通った水辺だった。
一体ここはどこ?
ガルザはどこ?
帰りたい!
助けて!
もうそれしか考えられなくて、泣きそうで、体にうまく力が入らない。それでも、魔物は唸り声を上げて近づいてくる。さっきまで暗かった森の中と違って、明るい太陽の下に照らされたこの場所では、牙や爪がやけに鋭く光って見えた。それが余計に怖くて、逃げ出したいのに這いずることしかできない。
後ろには水辺。前には魔物。
絶体絶命と言うには十分すぎる状況なのに、次の瞬間、腕に何かがまとわりつく感覚がした。
「うわあっ!」
気づいた時には、引きずり込まれていた。
何が起きたかわからない。ただ、全身が冷たくて、重たくて、息ができない!
「げほっ! けほっ……うわああああっ!」
投げ出されるように身体が圧迫感を感じた。次の瞬間、口の中が水と空気でぶつかり合って苦しくなる。余裕なんて欠片もないそんな状況でも、両目は何が起きたのかを、オレに必死に伝えてきた。
水の中から飛び出している黒く長い触手。オレを縛り上げて高く持ち上げているそれを目でたどれば、透き通る水には不似合いな黒い塊が沈んでいた。まるで手足のようなそれをいくつも水面上に伸びているから、その不気味な塊が本体――この巨大な魔物の胴の部分なんだとわかった。
そうしているうちに塊も浮上してきて、森から追ってきた狼たちにも腕を伸ばし始めた。ギャンギャンと悲鳴を上げ逃げ惑うそれを無視して、腕は獲物をかっさらうと、巨大な口の中へと放り込んでいった。
あまりにも現実離れした光景。けれど、断末魔の悲鳴と血の匂いが届いた瞬間、はっと現実に引き戻された。同時にオレは、これから待ち受ける未来を確信した。
「……いやだ。だれか……だれか、助けてぇっ!! ガルザぁっ!!」