外伝1 「ママ」が「おばさん」になった日 T
「姉貴、この子を預かって。」
突然姿を消し、突然戻ってきた弟。そして突然見知らぬ赤子を託し、再び姿を消した。
あれから5年。弟は一度も姿を見せない。あの日私の腕の中ですやすやと眠っていた子供は、一人で立って歩きまわり、無邪気な笑顔を見せている。私のことを「ママ」と呼び、私はその度に「おばさん」と訂正をかける。私はあの子の母親じゃない。初めての子育てに悪戦苦闘し、いつか弟がこの子を引き取りに来るのを待ちわびている。そう。ただの保護者。
「ママ!ママ!」
「だから私はママじゃないっていってるでしょ?ティマ。」
「あ、えっと…お、おばさん。」
私がそう言うと、ティマはぎこちなく訂正する。このやりとりも何度目だろうか。思えば、ティマが話せるようになってからずっとしているような気がする。それでもこの子は私を「ママ」と呼ぼうとするのだ。もしかしたら、私がそうやって訂正をかける姿が面白いのかもしれないけれど…。
「そう。で、どうしたの?」
「うみ!うみにいこう!」
肩をすくめ、はいはいと返事をした。ティマは海が好きな子だった。天気がいい日は決まって海に出かけたがる。実はこの子の親は海なんじゃないかと疑いたくなるくらいだった。私は帽子を被り、ティマに小さな上着を着せて家を出る。
イーバオは『異端者狩り』から逃げてきたレイモーンの仲間が多く住む町。ヒトも住んでいるが、アレウーラのヒトと違って私たちを差別しない。魔物に襲われていたところを助けられたから。獣人化さえしなければただのヒトと変わらない。そう言って私たちに理解を示してくれる。だから『異端者狩り』で傷ついた私たちも笑顔でこの町に住める。だが、それも私たちの誰も獣人化した姿を見せていないからではないかとふと思う。あの半人半獣の姿を見せても、彼らは私たちを受け入れてくれるのだろうか…。
「よう!マリワナちゃん、またティマちゃんとおでかけかい?」
声をかけてきたのは武器屋のハク。一緒にマウディーラに逃げてきた幼なじみだった。
「『ちゃん』は止めてよ。私もう二十歳超えてるのよ?」
「歳なんて関係ないよ。ティマちゃん、元気かい?」
「ハクおじさん、こんにちは!」
「おう!こんにちは。ママとおでかけかい?」
「うん!」
「ハク!この子には『おばさん』って教えてるんだから『ママ』って呼ばせないで!」
「別に『ママ』でもいいだろ?ティマちゃんにとって、マリワナちゃんは母親なんだからさ。」
「ダメよ。私はただこの子を預かってるだけの他人なんだから。」
「ま〜たそんなこと言って。もう5年も世話してりゃ母親同然だろ?」
「それはあの『バカクー』が帰ってこないからでしょ!!?」
私はそう言って、ティマの手を引っ張ってハクに背を向けた。ハクはそれ以上何も言わず、やれやれという顔で私たちを見ていた。
…そう。私がこうしているのも、全部『バカクー』―――弟がティマを迎えに来ないせいだ。周りはティマのことを可愛がっているけど、私は正直、ティマに本当の親のところに帰って欲しい。そう思いつつ世話を焼いてるのは自分でもバカみたいだと思う。人様の子に何かあって面倒になるのはゴメンだと思ってるからかもしれない。或いは、弟が「死なせないで」と言ったせいか…。私がそんなことを思っていると知ってか知らずか、ティマは私に懐いてしまっているのだから皮肉だと思う。私がこの子に「ママ」と呼ばせないのは、いつか来るであろう迎えを拒絶しないようにしたかったからだ。自分はあくまでも他人。常にティマにその関係を教えておく。だから…「ママ」とは呼ばせない。
「…ティマ?ティマー?」
ある日、食事の支度ができ、いつものようにティマを呼んだ。でも返事がない。寝ているのかと思って寝室をみるともぬけの殻。突然ティマが姿を消したことに私は焦りを感じた。でも、その焦りはすぐに消え去った。
「ただいまー!」
玄関から聞こえた元気なティマの声。急いでむかうと、手を砂で汚したティマがニコニコして立っていた。
「ティマ!何処に行ってたの!?」
「うみ!ハクおじさんとファイナスおじさんとあそんだの!!」
「ハクとファイナスが…?」
「うん!わたしがうみにいくっていったらいっしょにきてくれたの!!」
ティマは嬉しそうに私にそう言った。だが、私はそんなティマの頭を思いっきり叩いた。ティマはびっくりして、私が叩いたところを手で抑えて赤茶の大きい瞳で私を見ていた。
「どうして何も言わないで海に行ったの!?ティマ!!何かあったらどうするつもり!?」
「へ、へいきだよ…」
「平気なら一人で行っていいなんて言った!?」
「ふ……え…ふぇええん!!」
ティマは泣き出してしまった。でも、私の中の怒りは収まらない。ティマを一人その場に放置して、私は自分の寝室に行った。ベッドに腰掛け、頭を抱える。こんなに怒ったのは久しぶりだ。前はあの弟が何ヶ月経っても現れる気配すら見せないことに怒った。あの時は子育てに疲れ、イライラが溜まっていた。だが今日は違う。あの子が勝手に外に出ていたことに怒りを感じた。そしてふと思った。
(私、初めてあの子のこと殴った…?)
私は自分の手のひらを見た。ティマの頭を叩いた手に、まだ痺れたような痛みが残っている。大人の力で思いっきり叩かれる痛みを、あの子は今日はじめて知った。そう思った時、私は自分のしたことに次々と疑問が出てきた。
私はどうしてあの子にあんなに怒ったの?
ティマに何かあって、その責任を負いたくなかったから?
それとも、本気でティマを心配したから?
…わからなかった。自分の本当の気持ちがわからなかった。今まで私はティマを他人の子として扱ってきたはずだった。なのに、今の自分は自分の子を心配している気がした。
私はあの子とどう接するつもりなの?
答えのない疑問が次々と浮かんでくる。でも、湧き出てくる疑問は突然ぴたっと止まった。ティマの泣き声が聞こえないことに気がついたからだ。私はまだティマは玄関にいるだろうと思い、こっそり玄関にむかった。でも、そこにティマはいない。扉がわずかに開いていた。
嫌な予感がした。
そして、その予感は的中してしまった。
「マリワナちゃん!いるか!?」
半開きの扉が開き、ハクが慌てた表情をして私を呼んだ。途端に、私はハクに対する怒りが込み上げてきた。
「ハク!!あんた、ティマが海に行こうとしたのなんで止めな」
「その話は後!!それよりティマちゃんが…!」
私の言葉を遮って出た不吉な言葉。一瞬、私は鼓動が止まった気がした。
突然姿を消し、突然戻ってきた弟。そして突然見知らぬ赤子を託し、再び姿を消した。
あれから5年。弟は一度も姿を見せない。あの日私の腕の中ですやすやと眠っていた子供は、一人で立って歩きまわり、無邪気な笑顔を見せている。私のことを「ママ」と呼び、私はその度に「おばさん」と訂正をかける。私はあの子の母親じゃない。初めての子育てに悪戦苦闘し、いつか弟がこの子を引き取りに来るのを待ちわびている。そう。ただの保護者。
「ママ!ママ!」
「だから私はママじゃないっていってるでしょ?ティマ。」
「あ、えっと…お、おばさん。」
私がそう言うと、ティマはぎこちなく訂正する。このやりとりも何度目だろうか。思えば、ティマが話せるようになってからずっとしているような気がする。それでもこの子は私を「ママ」と呼ぼうとするのだ。もしかしたら、私がそうやって訂正をかける姿が面白いのかもしれないけれど…。
「そう。で、どうしたの?」
「うみ!うみにいこう!」
肩をすくめ、はいはいと返事をした。ティマは海が好きな子だった。天気がいい日は決まって海に出かけたがる。実はこの子の親は海なんじゃないかと疑いたくなるくらいだった。私は帽子を被り、ティマに小さな上着を着せて家を出る。
イーバオは『異端者狩り』から逃げてきたレイモーンの仲間が多く住む町。ヒトも住んでいるが、アレウーラのヒトと違って私たちを差別しない。魔物に襲われていたところを助けられたから。獣人化さえしなければただのヒトと変わらない。そう言って私たちに理解を示してくれる。だから『異端者狩り』で傷ついた私たちも笑顔でこの町に住める。だが、それも私たちの誰も獣人化した姿を見せていないからではないかとふと思う。あの半人半獣の姿を見せても、彼らは私たちを受け入れてくれるのだろうか…。
「よう!マリワナちゃん、またティマちゃんとおでかけかい?」
声をかけてきたのは武器屋のハク。一緒にマウディーラに逃げてきた幼なじみだった。
「『ちゃん』は止めてよ。私もう二十歳超えてるのよ?」
「歳なんて関係ないよ。ティマちゃん、元気かい?」
「ハクおじさん、こんにちは!」
「おう!こんにちは。ママとおでかけかい?」
「うん!」
「ハク!この子には『おばさん』って教えてるんだから『ママ』って呼ばせないで!」
「別に『ママ』でもいいだろ?ティマちゃんにとって、マリワナちゃんは母親なんだからさ。」
「ダメよ。私はただこの子を預かってるだけの他人なんだから。」
「ま〜たそんなこと言って。もう5年も世話してりゃ母親同然だろ?」
「それはあの『バカクー』が帰ってこないからでしょ!!?」
私はそう言って、ティマの手を引っ張ってハクに背を向けた。ハクはそれ以上何も言わず、やれやれという顔で私たちを見ていた。
…そう。私がこうしているのも、全部『バカクー』―――弟がティマを迎えに来ないせいだ。周りはティマのことを可愛がっているけど、私は正直、ティマに本当の親のところに帰って欲しい。そう思いつつ世話を焼いてるのは自分でもバカみたいだと思う。人様の子に何かあって面倒になるのはゴメンだと思ってるからかもしれない。或いは、弟が「死なせないで」と言ったせいか…。私がそんなことを思っていると知ってか知らずか、ティマは私に懐いてしまっているのだから皮肉だと思う。私がこの子に「ママ」と呼ばせないのは、いつか来るであろう迎えを拒絶しないようにしたかったからだ。自分はあくまでも他人。常にティマにその関係を教えておく。だから…「ママ」とは呼ばせない。
「…ティマ?ティマー?」
ある日、食事の支度ができ、いつものようにティマを呼んだ。でも返事がない。寝ているのかと思って寝室をみるともぬけの殻。突然ティマが姿を消したことに私は焦りを感じた。でも、その焦りはすぐに消え去った。
「ただいまー!」
玄関から聞こえた元気なティマの声。急いでむかうと、手を砂で汚したティマがニコニコして立っていた。
「ティマ!何処に行ってたの!?」
「うみ!ハクおじさんとファイナスおじさんとあそんだの!!」
「ハクとファイナスが…?」
「うん!わたしがうみにいくっていったらいっしょにきてくれたの!!」
ティマは嬉しそうに私にそう言った。だが、私はそんなティマの頭を思いっきり叩いた。ティマはびっくりして、私が叩いたところを手で抑えて赤茶の大きい瞳で私を見ていた。
「どうして何も言わないで海に行ったの!?ティマ!!何かあったらどうするつもり!?」
「へ、へいきだよ…」
「平気なら一人で行っていいなんて言った!?」
「ふ……え…ふぇええん!!」
ティマは泣き出してしまった。でも、私の中の怒りは収まらない。ティマを一人その場に放置して、私は自分の寝室に行った。ベッドに腰掛け、頭を抱える。こんなに怒ったのは久しぶりだ。前はあの弟が何ヶ月経っても現れる気配すら見せないことに怒った。あの時は子育てに疲れ、イライラが溜まっていた。だが今日は違う。あの子が勝手に外に出ていたことに怒りを感じた。そしてふと思った。
(私、初めてあの子のこと殴った…?)
私は自分の手のひらを見た。ティマの頭を叩いた手に、まだ痺れたような痛みが残っている。大人の力で思いっきり叩かれる痛みを、あの子は今日はじめて知った。そう思った時、私は自分のしたことに次々と疑問が出てきた。
私はどうしてあの子にあんなに怒ったの?
ティマに何かあって、その責任を負いたくなかったから?
それとも、本気でティマを心配したから?
…わからなかった。自分の本当の気持ちがわからなかった。今まで私はティマを他人の子として扱ってきたはずだった。なのに、今の自分は自分の子を心配している気がした。
私はあの子とどう接するつもりなの?
答えのない疑問が次々と浮かんでくる。でも、湧き出てくる疑問は突然ぴたっと止まった。ティマの泣き声が聞こえないことに気がついたからだ。私はまだティマは玄関にいるだろうと思い、こっそり玄関にむかった。でも、そこにティマはいない。扉がわずかに開いていた。
嫌な予感がした。
そして、その予感は的中してしまった。
「マリワナちゃん!いるか!?」
半開きの扉が開き、ハクが慌てた表情をして私を呼んだ。途端に、私はハクに対する怒りが込み上げてきた。
「ハク!!あんた、ティマが海に行こうとしたのなんで止めな」
「その話は後!!それよりティマちゃんが…!」
私の言葉を遮って出た不吉な言葉。一瞬、私は鼓動が止まった気がした。