外伝2 募る想い実らん… T
山奥。緑の木々が生い茂り、雨で濡れている。その中を走り回る三つの影。うち二つは人間だ。それを追いかける巨大な影は一頭の熊だった。必死に熊から逃れようとする二人。しかし、徐々に距離は縮まっていく。一人の人間が舌打ちをして立ち止まり、背負っている大剣を引き抜いた。それを見たもう一人も、ある程度距離を保って身の丈ほどある杖を構える。
「タイタンウェイブ!」
振り下ろされた大剣から紅い衝撃波が放たれ、熊はその一撃に動きを止める。剣士はその隙に距離を詰め、熊の胴を斬り上げる。熊はそのまま仰向けに倒れた。まだ辛うじて息はあるが、もう彼らを追いかけることは出来ない。放って置いても問題はないだろう。
「どうやら、私の出番はなかったみたいね?ティルキス。」
その声に、ティルキスはまだ速い呼吸をしたまま剣を収め、長い茶色の髪をなびかせて声の主を見る。
「ははは。さあ急ごう、アーリア。雨も酷くなってきた。」
そう言うと、ティルキスはアーリアの手を引いて再び走り出す。アーリアはかすかに頬が赤くなるのを感じ、そんな彼女の後ろを美しい金髪が追っていた。
ここはアレウーラ大陸の西にある小さな島国『センシビア』。この国の第四王子ティルキスとジャンナの僧侶アーリアの2人は今、ドロテの山にいる。ティルキスの父君アスピス・バローネが病に倒れ、その薬草がこの山に生息しているという話を聞き、それを採りにやってきたのだ。しかし、目当ての薬草はなかなか見つからず、おまけに途中で熊や巨大猪に追われることもあり、振り切れない時は倒していく必要があった。その上雨まで降り出し、薬草探しは予想以上に大変な事になっていた。
「ティルキス。雨がやむまで、あの樹の下で休みましょう。」
アーリアが雨宿りに適した樹を見つけ、ティルキスとその樹の下に入る。雨の勢いはすでに強くなっていて、2人とも全身びしょびしょに濡れていた。雨に濡れ重くなった髪を絞りながら、ティルキスはやれやれと溜息をつく。
「運が悪かったな。雨に降られるなんて。」
「そうね。アスピス様だけでなく、私達も風邪で倒れてしまうわ。」
「はは。それはシャレにならないな。」
「もう、笑い事じゃないわ。」
アーリアの少し怒った声の調子を聞いても、ティルキスはまた軽く笑ってみせる。アーリアは呆れ、溜息をついてそっぽを向く。ティルキスは「悪い悪い」と謝るが、その顔には笑みがある。どこか能天気な王子様は――それが長所でもあるが――大事が起こらない限りは大抵こうだ。アーリアと出会った頃から、いや、それ以前からそれは変わらない。だが、そんなティルキスも一瞬真面目な顔を見せた。雨に濡れ、どうにか湿った服を乾かせないかと考えているアーリア。水を滴らせている美しい金髪。寒さのせいか少し赤くなっている頬。アーリアに好意を寄せているティルキスは、雨に濡れた、普段とはまた違った彼女の姿にしばらく見とれていた。そして、アーリアがその視線に気付く前に慌てて目を逸らす。
「そ、それにしても見つからないな、薬草。」
気を紛らわせる為に話題を振った。アーリアはそんなティルキスの様子を不思議に思いながらも、その言葉に頷いた。
「そうね。一体何処にあるのかしら?」
「……なら…」
「え?」
「あ、いや。フォレストなら知っていただろうか、と思っただけさ。」
今はアレウーラにいる、ティルキスの世話係を務めていたレイモーンの民の男を思い出す。懐かしさで表情が和らぐ。
「どうしてフォレストさんなの?」
疑問に思うアーリア。ティルキスは「あ、そうか」と声を出した。
「皆には話していないが、ジャンナ事件の後、フォレストは長い間この山に潜んでいたんだ。」
「このドロテの山に…?」
アーリアは周囲を見渡す。ティルキスは懐かしそうに頷き、言葉を続ける。
「『ドロテ山の怪物』だ、って付近の住民に噂されていたんだ。時々恐ろしい叫び声が聞こえる、ってな。何度か王家に調査を依頼していたが、父上達はあまり本気にしていなくてな。」
そう話すティルキスの口調はどこか楽しそうだった。先ほどアーリアに見とれ、赤くなっていた影はもうない。アーリアも興味深そうにティルキスの話に耳を傾けている。だから、次に話し出したティルキスの表情が少しだけ暗くなったのに、少し驚いた。
「ローレン兄上に連れて来られた時のアイツは、少し弱っていた。ジャンナで仲間を見捨てて逃げてきた、と負い目を感じていたからだと思うがな。」
「…それで?」
「父上と兄上が、センシビアにいた他のレイモーンの民と一緒に教会に突き出そうとしたのを、俺が止めた。それからはずっと俺と一緒だった。アイツ、最初は全然口聞いてくれなくてさ、こっちが挨拶しても返事をしなかったんだぜ。」
「苦労したでしょうね。」
「俺が?」
「フォレストさんよ。あなた、色々手をかけさせてたじゃない?」
アーリアの辛口にティルキスは苦笑した。おそらく、主にアレウーラに密入国した時のことを言っているのだろう。その時の話は、カイウスやルビアと旅をしていた頃に語って聞かせたことがあった。その頃のフォレストは、出会った頃と比べて随分色々話してくれるようになっていた。今頃は、ジャンナでレイモーン評議会の活動に精を出していることだろう。同時にカイウスとルビアのことも頭に浮かぶ。
「そういえば、カイウス達元気かしら?」
アーリアも同じ事を思ったらしい。表情が柔らかくなり、懐かしそうにしている。ティルキスも同じ気分だった。
「最後にあったのは二ヶ月前か。」
「ええ。相変わらず仲良さそうだったわね。」
そう言って2人はくすくすと笑った。各地をまわる旅で、2人はセンシビアを訪れていた。カイウス達はティルキスの家に招待され、何日かお互いの近況や共に旅をした頃について話した。その時に、2人の口喧嘩が必ずと言ってもいいほど登場したのだ。見た目は成長していても中身は相変わらずだった2人。まるで当時に戻ったようで、ティルキス達は声を出して笑っていた。
その時、ティルキスはふと何かを思い、アーリアを見た。彼女がセンシビアのスポットの討伐、復興のために来てくれてから、早くも一年と半年が過ぎていた。なんだかんだでアーリアはまだセンシビアにいる。それはティルキスにとっては嬉しいことだった。だが同時に、いつまで一緒にいてくれるのだろうという不安もよぎる。
「…なぁアーリア。いつまでこの国に居てくれるんだ?」
思わず口から出た言葉。アーリアは「え?」と少し戸惑った表情になり、雨が降りつづけている山の景色へと目を向け、しばらく沈黙する。その間ティルキスは、しまった、と自分の思いを口に出したことを後悔していた。聞こえるのは雨の音だけで、気まずさが2人を包んだ。
「…わたしがセンシビアに残ることになったのは、教皇様の命令のためです。教皇様が帰って来いといえば、わたしはジャンナに戻ります。」
――その教皇の命令は、アスピスの意向によるものでもあるが。とは言っても、別にティルキスが手を回したわけではない。アスピス自身もアーリアを気に入り、あわよくばティルキスの嫁として迎え入れるつもりでいたのだ。しかし、アーリアは過去に自分が犯した罪や僧としての立場を気にするばかりで、その気持ちを知っていても受け入れようとはしない。ティルキスもそれを知っていたが、この時はそれだけで引き下がらなかった。何故か彼の気持ちとは裏腹に口を衝いて出てくるのだ。
「過去の事なら、そろそろいいんじゃないのか?いや、そんな簡単じゃない事はわかってるつもりだ。だが、俺はもう、君は自由になっていいと思うんだ。つまり、君自身が幸せを感じてもいいと思うんだ。だから…その…」
何を焦っているんだ、俺は―――!
そうは思っても止まらず、そして肝心の所で言葉を詰まらせたティルキス。だが、アーリアは彼が言わんとしてる事を察したらしく、顔を今まで以上に赤らめ、彼に背を向けてしまう。ティルキスも何も言う事ができなくなり、長く沈黙がその場を支配した。それを破って次に言葉を発したのはアーリアだった。
「……無理よ。わたしは…」
「! アーリア!待て!」
ティルキスから逃げるように雨の中へ走り出したアーリア。それを追おうとしたティルキス。だが、アーリアの思いに従うかの如く、突然2人の間で落雷が置きた。幸い感電に至らなかったが、代わりにアーリアの姿を見失ってしまった。
「アーリア?アーリア、どこだ!?」
ティルキスは雨の中に向かって叫んだ。しかしその声は誰にも届かず、そして雨の中に吸い込まれていった。
「タイタンウェイブ!」
振り下ろされた大剣から紅い衝撃波が放たれ、熊はその一撃に動きを止める。剣士はその隙に距離を詰め、熊の胴を斬り上げる。熊はそのまま仰向けに倒れた。まだ辛うじて息はあるが、もう彼らを追いかけることは出来ない。放って置いても問題はないだろう。
「どうやら、私の出番はなかったみたいね?ティルキス。」
その声に、ティルキスはまだ速い呼吸をしたまま剣を収め、長い茶色の髪をなびかせて声の主を見る。
「ははは。さあ急ごう、アーリア。雨も酷くなってきた。」
そう言うと、ティルキスはアーリアの手を引いて再び走り出す。アーリアはかすかに頬が赤くなるのを感じ、そんな彼女の後ろを美しい金髪が追っていた。
ここはアレウーラ大陸の西にある小さな島国『センシビア』。この国の第四王子ティルキスとジャンナの僧侶アーリアの2人は今、ドロテの山にいる。ティルキスの父君アスピス・バローネが病に倒れ、その薬草がこの山に生息しているという話を聞き、それを採りにやってきたのだ。しかし、目当ての薬草はなかなか見つからず、おまけに途中で熊や巨大猪に追われることもあり、振り切れない時は倒していく必要があった。その上雨まで降り出し、薬草探しは予想以上に大変な事になっていた。
「ティルキス。雨がやむまで、あの樹の下で休みましょう。」
アーリアが雨宿りに適した樹を見つけ、ティルキスとその樹の下に入る。雨の勢いはすでに強くなっていて、2人とも全身びしょびしょに濡れていた。雨に濡れ重くなった髪を絞りながら、ティルキスはやれやれと溜息をつく。
「運が悪かったな。雨に降られるなんて。」
「そうね。アスピス様だけでなく、私達も風邪で倒れてしまうわ。」
「はは。それはシャレにならないな。」
「もう、笑い事じゃないわ。」
アーリアの少し怒った声の調子を聞いても、ティルキスはまた軽く笑ってみせる。アーリアは呆れ、溜息をついてそっぽを向く。ティルキスは「悪い悪い」と謝るが、その顔には笑みがある。どこか能天気な王子様は――それが長所でもあるが――大事が起こらない限りは大抵こうだ。アーリアと出会った頃から、いや、それ以前からそれは変わらない。だが、そんなティルキスも一瞬真面目な顔を見せた。雨に濡れ、どうにか湿った服を乾かせないかと考えているアーリア。水を滴らせている美しい金髪。寒さのせいか少し赤くなっている頬。アーリアに好意を寄せているティルキスは、雨に濡れた、普段とはまた違った彼女の姿にしばらく見とれていた。そして、アーリアがその視線に気付く前に慌てて目を逸らす。
「そ、それにしても見つからないな、薬草。」
気を紛らわせる為に話題を振った。アーリアはそんなティルキスの様子を不思議に思いながらも、その言葉に頷いた。
「そうね。一体何処にあるのかしら?」
「……なら…」
「え?」
「あ、いや。フォレストなら知っていただろうか、と思っただけさ。」
今はアレウーラにいる、ティルキスの世話係を務めていたレイモーンの民の男を思い出す。懐かしさで表情が和らぐ。
「どうしてフォレストさんなの?」
疑問に思うアーリア。ティルキスは「あ、そうか」と声を出した。
「皆には話していないが、ジャンナ事件の後、フォレストは長い間この山に潜んでいたんだ。」
「このドロテの山に…?」
アーリアは周囲を見渡す。ティルキスは懐かしそうに頷き、言葉を続ける。
「『ドロテ山の怪物』だ、って付近の住民に噂されていたんだ。時々恐ろしい叫び声が聞こえる、ってな。何度か王家に調査を依頼していたが、父上達はあまり本気にしていなくてな。」
そう話すティルキスの口調はどこか楽しそうだった。先ほどアーリアに見とれ、赤くなっていた影はもうない。アーリアも興味深そうにティルキスの話に耳を傾けている。だから、次に話し出したティルキスの表情が少しだけ暗くなったのに、少し驚いた。
「ローレン兄上に連れて来られた時のアイツは、少し弱っていた。ジャンナで仲間を見捨てて逃げてきた、と負い目を感じていたからだと思うがな。」
「…それで?」
「父上と兄上が、センシビアにいた他のレイモーンの民と一緒に教会に突き出そうとしたのを、俺が止めた。それからはずっと俺と一緒だった。アイツ、最初は全然口聞いてくれなくてさ、こっちが挨拶しても返事をしなかったんだぜ。」
「苦労したでしょうね。」
「俺が?」
「フォレストさんよ。あなた、色々手をかけさせてたじゃない?」
アーリアの辛口にティルキスは苦笑した。おそらく、主にアレウーラに密入国した時のことを言っているのだろう。その時の話は、カイウスやルビアと旅をしていた頃に語って聞かせたことがあった。その頃のフォレストは、出会った頃と比べて随分色々話してくれるようになっていた。今頃は、ジャンナでレイモーン評議会の活動に精を出していることだろう。同時にカイウスとルビアのことも頭に浮かぶ。
「そういえば、カイウス達元気かしら?」
アーリアも同じ事を思ったらしい。表情が柔らかくなり、懐かしそうにしている。ティルキスも同じ気分だった。
「最後にあったのは二ヶ月前か。」
「ええ。相変わらず仲良さそうだったわね。」
そう言って2人はくすくすと笑った。各地をまわる旅で、2人はセンシビアを訪れていた。カイウス達はティルキスの家に招待され、何日かお互いの近況や共に旅をした頃について話した。その時に、2人の口喧嘩が必ずと言ってもいいほど登場したのだ。見た目は成長していても中身は相変わらずだった2人。まるで当時に戻ったようで、ティルキス達は声を出して笑っていた。
その時、ティルキスはふと何かを思い、アーリアを見た。彼女がセンシビアのスポットの討伐、復興のために来てくれてから、早くも一年と半年が過ぎていた。なんだかんだでアーリアはまだセンシビアにいる。それはティルキスにとっては嬉しいことだった。だが同時に、いつまで一緒にいてくれるのだろうという不安もよぎる。
「…なぁアーリア。いつまでこの国に居てくれるんだ?」
思わず口から出た言葉。アーリアは「え?」と少し戸惑った表情になり、雨が降りつづけている山の景色へと目を向け、しばらく沈黙する。その間ティルキスは、しまった、と自分の思いを口に出したことを後悔していた。聞こえるのは雨の音だけで、気まずさが2人を包んだ。
「…わたしがセンシビアに残ることになったのは、教皇様の命令のためです。教皇様が帰って来いといえば、わたしはジャンナに戻ります。」
――その教皇の命令は、アスピスの意向によるものでもあるが。とは言っても、別にティルキスが手を回したわけではない。アスピス自身もアーリアを気に入り、あわよくばティルキスの嫁として迎え入れるつもりでいたのだ。しかし、アーリアは過去に自分が犯した罪や僧としての立場を気にするばかりで、その気持ちを知っていても受け入れようとはしない。ティルキスもそれを知っていたが、この時はそれだけで引き下がらなかった。何故か彼の気持ちとは裏腹に口を衝いて出てくるのだ。
「過去の事なら、そろそろいいんじゃないのか?いや、そんな簡単じゃない事はわかってるつもりだ。だが、俺はもう、君は自由になっていいと思うんだ。つまり、君自身が幸せを感じてもいいと思うんだ。だから…その…」
何を焦っているんだ、俺は―――!
そうは思っても止まらず、そして肝心の所で言葉を詰まらせたティルキス。だが、アーリアは彼が言わんとしてる事を察したらしく、顔を今まで以上に赤らめ、彼に背を向けてしまう。ティルキスも何も言う事ができなくなり、長く沈黙がその場を支配した。それを破って次に言葉を発したのはアーリアだった。
「……無理よ。わたしは…」
「! アーリア!待て!」
ティルキスから逃げるように雨の中へ走り出したアーリア。それを追おうとしたティルキス。だが、アーリアの思いに従うかの如く、突然2人の間で落雷が置きた。幸い感電に至らなかったが、代わりにアーリアの姿を見失ってしまった。
「アーリア?アーリア、どこだ!?」
ティルキスは雨の中に向かって叫んだ。しかしその声は誰にも届かず、そして雨の中に吸い込まれていった。