蒼湖編 第三話「イリシアの覚悟」
静寂を切り裂く、静かすぎる女の声が響き渡るや、女が沈んだ所から水面が激しくなる。
同時に、地震に襲われたような揺れに襲われ、一同は困惑と共に水面の方へと見た。
「――――」
再び、水面より姿を現し、その身を中空へと浮かせている女は彼らは睥睨した。
臨戦態勢を取る彼らをあざ笑うかのように笑みを深め、手を広げた。
すると、水面からいくつもの水流が荒れ狂い、女を包み込んでいく。
「何が、起きているんだ…!」
湖は、枯れ果てた―――否、『浮上』した。
それは正しく「水の星」だった。しかし、これほどまでに禍々しさを纏う星は存在し無いだろう。
鳴動する星から、あの女の声が彼らの頭に劈くように響き渡る。
「沈みなさい」
沈め。沈んでしまえ。そして、私が受け入れよう、と女は妖しく言った。
イリシアは咄嗟に周囲の仲間たち見る。
巨大すぎる敵に戦意は折れていないが、それでも状況の打破を見出す意思の強さを揺らされていた。
「……」
ふと自分の手を見る。小さく、震えていた。だが、それでも―――。
「皆……私が、アレを何とかしてみせる。だから、逃げて」
「!!」
イリシアの言葉に、一同は驚愕と共に彼女へと振り向き、声を上げる。
「ま、待て! あんな巨大なものを一人で食い止めるつもりか!? 無謀すぎるっ、早まるんじゃあ無い!!」
声を荒げながらも、必死に諭すようにリヒターは声をかける。他の一同も同意見だった。
全員の力を合わせれば打破できる。そう信じて、彼女を押しとどめようとした。
「―――本気、かい。イリシア?」
セイグリットだけが、平静と、厳格な様子で問いかける。
イリシアは彼女の方へと真っ直ぐ視線を向ける。二人は半神として、姉妹として、親子としての関係がある。
これはセイグリットがかつて代行体レプキアと共に半神を育てた事が起因している。
「…うん。怖いけどね………皆をビフロンスに逃がして。キルレストが戻ってきたら……また別の探索をすればいいから」
ツェーラス湖の水でなければならない、と言うわけではない。
キルレストなら他の世界にあるだろう素材となる水の居場所を知っている筈だから。
「此処で無理に命を減らす必要な、無いよ」
イリシアは自然に、微笑を浮かべた。その微笑に、セイグリットは込み上げる感情を押し留め、身を翻す。
「……アンタがそこまで言うんだ。どうしようも、ないさね」
「くそ! 俺は……俺は!!」
「無下にするな。行くぞ―――それで、いいんだな」
抵抗しかけたリヒターの腕を強く握り、ベルモンドは冷厳とイリシアに聞く。
彼女は頷き、他のもの達も覚悟を決めて、身を翻す。
唯一人を除いて。
「いやだよ、イリシア!」
「……アルマ」
鎧う彼女の悲痛な声に、イリシアは複雑な表情を見せる。しかし、それでも。
「―――行って」
「イリシアァ!!」
「急げ、来るぞ!!」
ベルモンドの一声と同時に水の星から無数の、水の砲弾が放たれてきた。
イリシアはそれを身に纏った『ヴァッサー』で彼らに当たらないように護りとおす。
「……ッ!!」
そうして、セイグリットたちは全速力で撤退していく。アルマは鎧の中で涙を流す。
それでも、足はかけ続ける。背中を押した彼女の意思に、従うように。
仲間たちが森の中へと入っていく。イリシアは安堵の微笑を送り、眼前に浮かぶ「水の星」に挑む。
水の星の中心に居る女は冷笑と共に残った彼女に声をかける。
「―――あなただけで、私を食い止めれるとでも?」
その気になれば、大津波となって彼らを森諸共呑みこめるわ―――と女は不敵に言う。
イリシアはその言葉が単なる嘲りではない、事実と認識している。
「侮蔑(あなど)るな」
怒気を言葉に纏わせ、反論する。
「我は、レプキア―――そして、イリアドゥスの『半神』。万物普遍の水を司る。
お前を食い止めるだけで済ませるものか」
手段は、あった。
たった一つだけの、手段が。
それは―――。
「ハァァァッ!」
迫り狂う無数の水の攻撃を掻い潜り、一気に水の星へと突っ込んだ。
女は冷笑を通り越し、嘲笑、哄笑を上げた。
「アハハハハッ! 自滅でもする気か!? 無駄ね、私の『中』に居るんだもの。取り込んであげる。
水の半神、なら―――『水に還りなさい』ッ!」
「……」
女は力を込めて、内部に居るイリシアを、ヴァッサー諸共取り込もうとする。
しかし、取り込まれる気配は無い。その意味を、女は直ぐに理解した。
「ッ! おまえ…! 逆に『取り込む』心算かァァ――――!?」
最初に、イリシアがこの湖の水を回収する際に行った吸収を、今度は、この「水の星」ごと取り込もうとしていたのだった。
「―――ハッ」
驚愕した女は理解と共に、侮蔑の睥睨を送る。
「愚かな。取り込めずに失敗したくせに、無駄な努力、よ?」
女はそう言うや、再び取り込む力を強める。
イリシアの水を吸収する力が勝つか、女が彼女を取り込む力が勝るか―――。
それだけの勝負だった。
―――どれほどの時間が経ったか。1分か、10分なのか、1時間なのか。
イリシアは敢えて、吸収する力に集中する為に、思考を停滞していた。
余計な思考は、要らぬ感情を招きよせる。それでは、この「水の星」には勝てない。
「―――」
何かが流れ込んでくる。「水の星」の水ではない。まだ、『ヴァッサー』の鎧が在る。
理解する。これは、「情報」だ。
母イリアドゥスが「記憶」を読み込む感覚は、きっとこんなのだろうと、他愛なく想う。
流れ込んでくる「情報」は、この世界の―――この「水の星」に取り込まれた『住人』たちの記憶だった。
―――ずっと、ずっと昔の事。
『住人』たちは個の湖から生まれ、育っていった。此処は彼らにとっては命の母であり、神のようなものだった。
『住人』たちは死んだ後はその骸を湖へと帰す。それは湖が彼らの魂の故郷だからであり、再び生まれ来る為だった。
『住人』たちは死者だけではなく、生贄も投げ入れた。実りの豊穣を願う為――――それが、始まりであった。
『湖』に意志が生まれていた。無垢なる自我を。
しかし、数え切れない生と死を取り込み、歪に変貌してしまった。
『湖』は意志を代行する『神体』を用意して、『住人』たちを唆した。もっと生者を、死者を、湖へ帰せ。
そうして、唆された彼らは、生者と死者を捧げた。
そして、誰も彼も、自分たちまでもが、『全て』―――捧げられてしまった。
「――そう。此処にいた『住民』たちは私の『中』に還ったのよ」
「情報」が途切れると、眼前に女が姿を現した。全く警戒する素振りも無い淡々とした様子で言ったのだ。
イリシアは『ヴァッサー』の力を緩めず、女に問いかける。
「何故――無理やり、命を!!」
「何故?」
首を傾げ、イリシアの問いかけを本気で理解しない。
「『それが当然』だからよ? 命は巡りて還る。それが、何か?」
「……っ」
この女―――否、『湖』から溢れる、邪悪な畏怖にイリシアは総身が冷えるような感覚になる。
これほどまでに、無垢で残酷すぎる存在を、イリシアは知らなかった。
だからこそ、此処で食い止めなければならない。倒さねばならない。
「……!」
これ以上の混沌を引き起こさない為に、イリシアは全力で抗う。
「出来るかしらね? 無意味と気付けないのかしら」
冷徹に、睥睨をやめない彼女にイリシアは鋭く睨みかえし、小さく笑んだ。
その笑みに、女は気になったのか問いかける。
「余裕のようね…」
「――……フフ、おかしな話だけど、あなたが『何者』なのか以前に……名前を聞いてなかったわ」
「そうねえ。そこまで余裕なら、答えてあげる。最期に見える相手の名を」
女は笑みを浮かべ、『湖』の、自我であり、精神体たる我が名を名乗る。
「アニマヴィーア」
その名と共に、急激な力が発動する。イリシアはヴァッサーの鎧が取り込まれつつある事に気付く。
「ッ!」
「残念ね。もう、お終いね」
女―――アニマヴィーアは笑みを深め、
イリシアは皆が離脱してくれたであろうかと、自身よりも彼らの無事を想った。
「さようなら。安心しなさい―――他の皆も、一緒になるから」
鎧を、彼女を取り込もうと、その力を一気に高めようとした―――、
刹那。
「そうはさせないわ」
「!!」
この場にいない筈のとある声の方向へと、アニマヴィーアは驚愕と共に振り向く。
イリシアは朧気に、その気配を感じ取った。
「くっ―――!」
振り向いた瞬間、アニマヴィーアは巨剣の一閃により両断された。間髪入れずにイリシアを確りと抱えて、水中から離脱する。。
両断されても瞬く間に再生した女は斬り付けた人物を視認する。
鈍く輝く、壮麗な黒鎧を纏った騎士だ。
「アルマ!?」
「ベルモンド、思いっきり引っ張って!!」
黒き鎧騎士――アルマのイリシアを抱える反対の腕には黄金の鎖が巻きつけてあり、その一声と共に、一気に引っ張られる。
「馬鹿め! 不意打ち、救助のつもり? 諸共取り込まれなさい!!」
力を込め、領域内のものを自身の一部にしようとする。
だが、二人は全く取り込まれず、あろうことかアルマを引っ張り、繋いでいる鎖までもが取り込まれない。
その鎖の方向―――、空中で二人を引っ張る男ベルモンドが居た。
「何!?」
「悪いな。やはり、大切な仲間を見捨てる事など出来ない!」
二人が勢いのまま水の星から突き抜けると、鎖を引っ張り、二人をリヒターとディアウスが確りと受け止めた。
「『ヴァッサー』の力も限界だったか。――最悪の事態は免れたな」
イリシアを抱きとめたのは安堵の声を漏らすディアウスで、既に彼女が纏った『ヴァッサー』は解除されていた。
一方、鎧姿のアルマを必死に抱きとめたリヒターは必死な様子で言う。
「は、はやく地上に下ろすぞ! ……お、重たい」
「させるか!!」
「そりゃこっちの」
「台詞、よ!」
水の星から繰り出される無数の水弾が、閃く光刃と奔り抜く氷結の弾丸によって全て相殺された。
遮る様に現れたのはギルティスとプリティマの二人の女性だった。
そして、
「――悪いね、イリシア。あんたの覚悟を踏み躙るようだけどさ」
そう言うとともに全身から、並々ならぬ覇気を発するセイグリットが言う。
「アタシらの覚悟も、アンタと同じくらい―――譲れないものさね…!」