KH 1-03
「…………あれ?」
がばりと跳ね起きる。髪や頬には砂がこびりついている。
潮の匂い。さざ波の音。懐かしい故郷にも似た雰囲気。
しかしいつかと違い、顔を覗き込んでくる友だちの姿はない。
「…………」
周囲は暗い。真っ黒な海。遠くで白く光が見える。
奇妙な世界だった。白夜の夜を切り取ったかのような、幻想的で、しかし終末を予感させる――――朽ちた雰囲気。
とても、ソラが知らない世界だった。
唖然とした。心の機微が凍りついた。世界が停止したようだった。
「ここどこぉ!?」
さすがに頭を抱えてしまった。ばたばたと手足を暴れされた。砂が小さく舞う。その程度だ。世界は一向に停止し続ける。
どうしてこうなった。あの緊迫したシーンから、どうやったらひとりこんな世界に投げ出されるのだ。こんなの絶対おかしいよ。
数秒。あるいは数分が経過する。
ひとしきり動揺と戸惑いをぶちまけたところで、ようやくソラも冷静さを取り戻した。そういえば緊迫したシーンからひとり見知らぬ世界に投げ出されたのはなにも初めての経験ではないのだ。少々不意打ちで混乱しただけである。キーブレードの勇者の心の強さを舐めてはいけない。
――――と。
砂浜を踏む雑音が耳に届いた。近く、ソラの近くに、誰かがいる。キーチェーンに手を掛ける。
前にもやはり、こうしてひとりの時に襲われたことたある。警戒を強め、戦闘の姿勢を正す。
「――――やぁ」
岩陰から、人影がすっと現れた。まるで影から産まれるように、幻が実を持ったかのように、描いた絵に零した墨汁のような唐突さだった。
風貌は壁を切り取ったかのような黒で統一されていた。黒い手袋。黒いブーツ。そして、黒フードのコート。
「ソラ……会いたかった」
「誰――――?」
答える代わりに黒ずくめの――――声と体格からして少女のそれだが――――少女は片手をかざした。瞬間、手のひらが煌々と輝いて――。
一条の鍵の形状を束ねた。
『キングダムチェーン』。
ソラのキーブレードだ。
「それっ……!」
思わずソラは右手に手を向けた。キーチェーンに繋がれた鍵をかたどった剣は、確かに未だ、この手の中に存在している。
「これはソラのもの。だから、返しに来たんだよ。約束のお守りと一緒に」
そう言って、今度は星型のシンボルを見せてみせた。サラサ貝で編んだカイリの――――カイリとの約束のお守り。
「どうして――――?」
黒ずくめの少女は答えない。代わりに深く被ったフードを小さく左右に振った。
その場にキーブレードとお守りを置いた。彼女は後ろ歩きに離れていく。
なにも言わない。そこには何もないようで、壁があった。なにかでソラは拒絶されている。恐れられている。ソラを?それとも別のなにかのせいで?
「待ってくれ!ここはどこなんだ?君は、いったい……?」
「私はここにはいなかった。あなたもここにはまだ来ないはずだった。けれど、あいつが現れて全てが変わってしまったの」
「変わった?どういうこと?」
ソラの疑問は募っていく。積み重なるクエスチョンに、黒ずくめの少女は口元を緩ませた。
そして、宣言した。
ここは世界の裏側。
元の世界と隔絶されたこの狭間の世界で、彼らを救わなければならない。
「待って――――!」
手を伸ばす。澄んでいく彼女。
指先は空を切った。彼女が消えていく。
白夜の砂浜に、ソラひとりだけが残された。
当てはなかった。
けれども立ち止まっているわけにもいかず、ソラは砂浜を歩き続けた。
さざ波の音以外、自分の砂を蹴る音以外、なにも鼓膜を揺らさない。凪いだ世界。なにもない世界。空っぽの世界。
――――あの黒ずくめの少女は、ここを『狭間』と呼んだ。
この白夜の空によく似合う言葉だ。夜なのに日が出ている世界。暗を指す太陽。闇の中の光。
こんな世界で、たったひとり。
さしものソラも、少しノスタルジアを感じる訳だが。
「――――お」
寂しくなってしばらくして、一軒家が目に入った。
造りは一目、ちゃんとしている。白い壁。紺色の屋根。簡素な直方体形状。窓はなく、扉もひとつきりだ。
質素と言えば聞こえはいくらかいいかもしれないが、ただただ単純に個性もなにもない容れ物のような家。ありていに言って、奇妙だった。
なにかがあるだろう。そう直感する。
あの黒ずくめの少女の言葉もあった。ソラはこの世界で、何かをする必要がある。
悩む要素など、一欠片も存在しなかった。
ドアノブを回す。鍵は開いていた。
「ごめんくださーい!」
中は薄暗かった。否、窓ひとつないこの容れ物の中が真っ暗でない方がおかしい。
光がある。即ち、人がいる。
下だ。この容れ物には地下室があるのだ。
「大丈夫か――――!?」
張り詰めた空気に悪寒を感じ、ソラは地下に飛び込んだ。階段を落ちるように降り、暗がりに目を細める。
そこでは、時間が眠っているようだった。
蛍光塗料か何かが使われているのか、床には赤いラインで円とその中に何かの紋様が描かれていた。
中心にはふたり。黒髪の少年が座り込み、ひとりを抱いている。その姿勢で、硬直している。
声も上げず、指先ひとつ動かさない。何年も何年も何年も前からこうしてこの空間だけ時流から隔絶されてしまっていたかのような――――そんな錯覚を感じずにはいられない。
しかしソラはすぐに気がついた。黒髪の少年は動いてこそいないが、涙を流していた。
赤い涙だった。頬を伝って、今、一滴が抱きかかえたひとりに零れ落ちる。
涙の意味などソラにはわからない。しかし錯覚は幻であることだけは理解できた。
「大丈夫か!?」
ソラの言葉で、少年はひくりと身を震わせた。赤い涙を滴らせる瞳に薄く、光が戻り始める。呼び掛けは通じている。
もう少し――――そう、感じた矢先。
「――――ミツケ……タゾッ!」
ソラの背後で、黒暗が柚らめいた。闇の気配。
身を翻す。黒の奥で、双眸が光り輝いている。そこに宿っているのは本能だ。野生といってもいい。原初の法則――――ただ求めることだけに囚われた心の亡骸。
ハートレス。
「こんなときに……ッ!」
ソラはキーブレードを引き抜いた。這い寄る闇を一閃で霧散させる。闇は絶えない。次々と闇から這い出てくる。
キリがない。
けれど、撤退するわけにもいかない。ソラの背後には無防備なふたりがいる。彼らを起こさなければ。
「おい!おーい!起きてくれよ――――ッ!」
「守っているのか?見知らぬ人間を?」
闇を薙ぎ払いながら呼びかけるソラの前に、一際大きな黒の塊が現れた。
グミブロックをそのまま引き伸ばしてハートレスにしたかのようなそれはぐにゃぐにゃとこんにゃくのように揺れながら、低くノイズの走った声を上げた。
「いいのかぁ?お前まで食われるぞ、光の勇者?」
光の勇者――――その言葉にソラは顔をしかめた。どこかこちらを小馬鹿にしたイントネーションだ。
これまではそれで上手くいったのかもしれんがな。今度は無駄だ。だから諦めろ――――。
言葉の裏でそう言っているのだ。この怪人黒コンニャクは。
「確かにキリがないよ。けれど、俺に見捨てられるわけないだろ……!」
「勇者の看板は重そうだなぁ?どれ――――ひとつ、降ろさせてやろうか?」
黒い帯が闇から雑草のように生えてきた。そのまま植物のツルのようにソラの足に伸びてくる。
キーブレードの一閃で10刈り取っても20が迫ってくるのだ。抵抗のしようがない。
足が縛られ、黒いツルはキーブレードに巻き付いた。黒い塊は、そのままキーブレードを――――ソラまで飲み込もうと迫ってくる。
「……俺が戦うのは勇者だからじゃない」
黒い塊が、キーブレードを丸呑みにする。最早逃げようは無い。
また、外しようも。
「俺は、俺の心を信じるだけだ……!」
瞬間、黒い塊の奥から眩い光が閃いた。黒い塊は断末魔の悲鳴を上げる暇さえなく爆散する。
黒い塊もハートレスと同様、黒い霧に消えていく。ソラはその場に尻餅をついて息を吐いた。
だが、闇は未だ消えていない。親らしい塊を倒したはずだが、ハートレスは増え続けている。
「まったく……!」
悪態をついてソラはキーブレードを握り直す。こうなったらトコトンやるしかない。
横目に背後を確認する。ふたりは――――。
「――――あ」
黒髪の少年が、立ち上がっていた。抱きかかえていたひとりは未だ目を覚まさないらしく、彼に抱かれたままである。
少年の表情からは動揺が見て取れる。ソラに?このハートレスの大群に?
――――いや。違うだろう。やはりソラにもまた経験がある。
彼の頭は、その腕の中の人物でいっぱいのはずだ。
ならば、またそれをサポートするのも経験者の務めだろう。
「逃げるぞ!」
「えっ……」
「いいから!」
ぼーっとしている少年の肩に手を掛け、ソラは左右に視線を振った。どこか。闇に紛れて逃げ道はないか――――?
と。
「うわっ!?」
瞬間、黒い壁が爆発した。赤い炎が通り過ぎ、その後を追って?に冷たい風が当たる。
空気が抜けている。
「こっちだ!」
少年を爆発跡に押し込み、ソラもすぐにそれに続いた。階段がある。とても急で、螺旋状になっている。
前後のハートレスを剣で魔法で吹き飛ばし、暗い階段を転けそうになりながら駆け下りた。
――――何十、何百の段差を終えて。
ようやく、階段は終わった。
だだっ広い袋小路。暗がりでよく見えないが、どうやら行き止まりのようである。
「そんな……」
後続のハートレスがすぐにやってくるだろう。キーブレードを握り締め、ソラはくっきりと疲労の色を滲ませた。
少年はひとりを抱きながら、よくついてきていた。ソラもペースを合わせていたが、それなりに速かったと思う。
彼にも、ソラにも不備はなかった。
ただ、運がなかったのだ。
「……その子は?」
ソラが少年の抱くひとりに気をかける。小柄な少女らしい。これだけの騒ぎの中、まるで眼が覚める気配がなかった。
少年は首を振った。唇を噛み、既に赤い涙も枯れた目を細めている。
「わからない。わからないんだ。ただ、ヒスイは目を覚まさなくて……」
「ヒスイって言うんだな、その子」
「えっ?…………ん、ああ……」
少年はきょとんとした顔で生返事を返す。おかしなリアクションだなとソラが首をかしげると。
「ぶぅぅぅびびぃぃぃぃーっ!」
唐突に、闇が切り払われた。ソラは跳び上がり、少年は裏返った悲鳴を上げた。
闇を切った光は、どうやらヘッドライトのようだ。赤い車のヘッドライトが光っている。
ここはガレージだったらしい。
「さっきの……なんだ?クラクション?」
「ええがなええがなそんなこと!」
「うわっ!?こいつ……喋るぞ!」
「だーからどうでもええがな僕のことなんて!ほら、はよ僕に乗って!はよ!」
「乗ってって……?」
「だーかーらー!目の前にいるぼく!チャーミングなレッドボディの僕!ドゥー・ユー・アンダースタン?」
ぶぶー!
またけたたましくクラクションが鳴って、赤い車は大きく跳ねた。
おそるおそる近づき、そろそろとドアノブに手を掛け。
「あ。助手席と運転席は勘弁してつかーさい。僕、何処の馬の骨かもしらん人にハンドル触ってほしくないですし。助手席は女の子しか乗せない主義なんで」
……いそいそと後部座席に乗り込んだ。
瞬間轟音が車体を揺らした。排気煙が背後で噴き上がる。ギャギャギャと車輪が空転する。焼け付くゴムの匂い。体は左右に振り回されて。
「しゅぱーっ!」
赤い車はロケットスタートをかまし、闇の中に突っ込んだ。