KH 2-06
予測できる敵など敵ではない。
来るとわかっている攻撃なら対処のしようがある。時間があればなおさらだ。最悪、どうにも対処できないなら逃げればいい。諦めて覚悟を決めるのもいい。
来るとわかっているなら、最低限の心構えは整えられる。
予測できる敵など敵ではない。
本当の敵は、本当に危険なのは、本当の絶望は、予測できないところから来る。
想像もしない場所から、夢にも思わないようなものが無意識の隙を突いて現れる。
だからこそ、本物の敵は危険で、絶望もする。人は恐怖する。
――――そして。
その絶望に対して、リアクションは三者三様だった。
アクアは目を見開いた。毛は逆立って体は地上から3ミリ浮いた錯覚をする。
ロクサスは生唾を呑み込んだ。その意味を体が理解して細胞という細胞が震え上がったことを知覚する。
セキは逃げた。正確に言えばその場に硬直していたが、その意識は直面した現実に背を向けて遥か彼方に逃げ出していた。本能が現実と心の噛み合いを外し、衝撃から目を背けていた。
圧倒的だった。
地下の闇とゴミを一緒くたに混ぜ合わせた深淵から伸びた右腕。それが崖の淵を掴み、ゆらりと大地を靴底で擦るまで、果たして1秒も間はあっただろうか。
異様、異質、異形、異常……であった。
実体がない。幻のような身のこなし。
黒くのっぺりとした生物感のない頭部に、引き締まった四肢が目立つ。ヒトの姿を模しているが、酷く人間らしさが欠如していることだけは一目で理解できる風貌だった。
「ヴァニタス……!?」
アクアがようやく口を開いた。キーブレードを引き抜く。
ヴァニタスというソレは無言だ。右手に同じくキーブレードを握る。
一触即発――――。緊張感が加速度的に高まっていく。
ロクサスは動けない。キーブレードを取り出すのがワンテンポ遅れてしまった。今取り出せばその隙をヴァニタスは逃さない。回避遅れてしまうロクサスは攻撃を受ける。おそらく一撃で『始末』される。
アクアに任せる他はない。ロクサスが攻撃に移るのはその後だ。
両者が構えたまま、距離を保ち膠着を続けていた。
ヴァニタスが小さく頭を振った、瞬間――――。
「どらどらどらどらどらどらどらどらどらどらどら!!」
なんか地面が爆発した。
ヴァニタスの姿が爆発の影に埋もれていく――――否。
アクアがジャンプする。爆発に吹き飛び空を舞う瓦礫を蹴り、更に上昇。
キーブレードを抜いたロクサスの視線が上へと走る。宙ではキーブレードの火花が一瞬毎に三つは弾け続けている。
その剣戟のスピードもさることながら、着目すべきなのは重さである。キーブレード同士が打ち鳴らされた音は爆音を裂いて誤解なくロクサスの耳にまで届いている。
尋常でない速度と重さの剣戟の応酬。そのレベルはロクサスよりも更に高い位置にある。
――――しかし、アクアは押されていた。
途切れない剣戟の流星が、徐々にアクアに近くなっていく。
危ないとロクサスが判断したのとほぼ同時に火花とアクアの体が重なった。
アクアがひるむ。ヴァニタスはキーブレードを大きく振りかぶる。
激音と共にキーブレードはアクアの体を強打した。
アクアは真っ逆さまに地面へ落ちる――――寸前で、ロクサスはどうにか抱き止めた。
「ちょっと大丈夫……!?」
「いって……おも」
「――――なんか言った?」
「え?……え?」
抱き止めたアクアは礼だけ置いてさっさと立ち上がった。いやにぶっきらぼうな態度だ。
ロクサスはヴァニタスの衝撃の重みで未だ痺れる両腕に顔をしかめた。
ヴァニタスは軽やかに着地している。アクアとの激しい攻防などなかったかのようにけろりとしている。
アクアとロクサスを見下ろすヴァニタスは、やはり無言だ。
「――――ってなぁ! さっきから僕のバンパーげしげししないでくれるかフルフェイスの兄ちゃん!
ちょっと強いからって調子になんない! 僕には先生っていうつよーい味方とセキっつーバックがいるんやからなっ!?」
反して、足元は騒がしい。
爆発主らしいこの車はビビだった。黙っていれば普通の自動車であるビビを、ロクサスは見た目だけでは区別できない。ちなみに「強い」味方からは外されたセキは、未だに――――。
瞬間、背後を盗み見たロクサスの視界を、紅蓮の弓矢が切り裂いた。
「うわっ――――ッ!」
ロクサスが息を呑んだ。細い弓矢に大きな赤熱が走り、電柱ほどまで長く太い炎の剣を成す。
それをセキが握り締め、炎熱の刃がヴァニタスを襲った。巨大さと威力を伴った一閃――――しかしヴァニタスを捉えるには速度が足りない。
ヴァニタスはバックステップで無理なく炎の刃を飛び越えた。
「乗れ!」
ヴァニタスに続けて剣を振るう。ヴァニタスがビビから飛び降りた。ロクサスもアクアもビビに乗り込み、セキもそれに続いた。
ビビが走る。マフラーを轟かせて白煙を振りまき、タイヤと地面への間で強烈な熱を生み、急発進特有の滑りを起こし、全速前進。
ヴァニタスを置き去りにして、3人はその場から逃げ出した。
「……追ってこないな」
「あいつなら追撃は不可能なことじゃない。……見逃されたみたいだな」
「そりゃ幸いかな……ビビ、とりあえずソラと」
「おうおうおうおうおう。んなことよりセキー。セキ・グレンさんよー。ぼくの自慢のぷりちーなバンパーをコゲコゲにしといてなに仕切ってんねんワレ。お前だけ叩き出してもええんやぞコレ」
「…………すまん」
「ほいほいほいほいと謝れば許しれくれるとおもったら大間違いやぞセキー。誠意が足りんわ誠意がー。土下座せーや土下座をー。倍返しやぞワレー」
「えーと、ビビ……君?で、いいのかな?」
「はーい。ぼくがまさしくビビ君でーす。ところでお嬢さんはどちら様?」
「アクアよ。……一応説明すると、彼はロクサス。いい?」
「ロクサスなー。なんや先生と一緒で強そうな感じするねー君はー。セキとはえらい違うで僕元気。……で、アクアちゃんなーに?」
「逃げてるの、私達」
「あー、さっきのフルフェイス野郎なー。あいつマジムカつくわー。なんて言ってもぼくの自慢のバンパーを足蹴にやん?
泥で汚れるやん。まじないわー。や、いっちゃん最悪はコゲコゲの黒にしたそこのセキってーのなんやけ」
「――――ふざけてないで、しっかり走って。万に一つもあいつの接近を許さないで。いいわね?」
「はい……」
「声が小さい!」
「ハッ!イエス!アイ・アイ・マム!」
ぴたりとビビは無駄口を止めた。ミラーに映るヴァニタスはぽつんと立ち尽くしている。追ってくる様子はない。
豪快なアクセルワークでビビは地下空洞を駆け抜けていく。セキはふぅと息を吐いた。
「ありがとう、ビビ。いいタイミングだった」
「ったり前やん。ぼくを誰だと思ってますねん」
「この子は――――?」
助手席に座るアクアが抱きかかえているのはひとりの少女だ。固く目を閉ざし、これだけの喧騒の後でも起きる気配はまるでない。
「ヒスイだ。……心を失ってしまっているらしい」
「そう。……ヒスイ、ね。私はアクア。よろしくね」
「なぁ、セキ。今、心を失ってしまっている……っていったけどさ」
「言葉通りだよ、ロクサス。……それ以上は言えない」
頑なだった。ヒスイの話題を振ると、必ずセキは口を噤んだ。
何故――――?
当たり前の疑問符。しかし敢えてロクサスもアクアも口には出さない。
影を感じたからだ。闇といってもいい。傷口と言い換えてもいい。
仮にそれをつつけば、取り返しようもなくセキが破壊されてしまうのではないか――――?
その確信にも似た予感があった。いま、セキにそれを聞くのはまずい。
「それ以外のことは聞かないさ。俺たち……いや、俺が知りたいのはたったひとつだ」
「なに?」
「失った心っていうのは……取り戻せるのか?」
「…………ああ、たぶんな」
ビビが黙々と走っていく。三様に沈黙する車内。
――――重苦しい沈黙を斬り裂いたのは、鈍い衝撃だった。
来るとわかっている攻撃なら対処のしようがある。時間があればなおさらだ。最悪、どうにも対処できないなら逃げればいい。諦めて覚悟を決めるのもいい。
来るとわかっているなら、最低限の心構えは整えられる。
予測できる敵など敵ではない。
本当の敵は、本当に危険なのは、本当の絶望は、予測できないところから来る。
想像もしない場所から、夢にも思わないようなものが無意識の隙を突いて現れる。
だからこそ、本物の敵は危険で、絶望もする。人は恐怖する。
――――そして。
その絶望に対して、リアクションは三者三様だった。
アクアは目を見開いた。毛は逆立って体は地上から3ミリ浮いた錯覚をする。
ロクサスは生唾を呑み込んだ。その意味を体が理解して細胞という細胞が震え上がったことを知覚する。
セキは逃げた。正確に言えばその場に硬直していたが、その意識は直面した現実に背を向けて遥か彼方に逃げ出していた。本能が現実と心の噛み合いを外し、衝撃から目を背けていた。
圧倒的だった。
地下の闇とゴミを一緒くたに混ぜ合わせた深淵から伸びた右腕。それが崖の淵を掴み、ゆらりと大地を靴底で擦るまで、果たして1秒も間はあっただろうか。
異様、異質、異形、異常……であった。
実体がない。幻のような身のこなし。
黒くのっぺりとした生物感のない頭部に、引き締まった四肢が目立つ。ヒトの姿を模しているが、酷く人間らしさが欠如していることだけは一目で理解できる風貌だった。
「ヴァニタス……!?」
アクアがようやく口を開いた。キーブレードを引き抜く。
ヴァニタスというソレは無言だ。右手に同じくキーブレードを握る。
一触即発――――。緊張感が加速度的に高まっていく。
ロクサスは動けない。キーブレードを取り出すのがワンテンポ遅れてしまった。今取り出せばその隙をヴァニタスは逃さない。回避遅れてしまうロクサスは攻撃を受ける。おそらく一撃で『始末』される。
アクアに任せる他はない。ロクサスが攻撃に移るのはその後だ。
両者が構えたまま、距離を保ち膠着を続けていた。
ヴァニタスが小さく頭を振った、瞬間――――。
「どらどらどらどらどらどらどらどらどらどらどら!!」
なんか地面が爆発した。
ヴァニタスの姿が爆発の影に埋もれていく――――否。
アクアがジャンプする。爆発に吹き飛び空を舞う瓦礫を蹴り、更に上昇。
キーブレードを抜いたロクサスの視線が上へと走る。宙ではキーブレードの火花が一瞬毎に三つは弾け続けている。
その剣戟のスピードもさることながら、着目すべきなのは重さである。キーブレード同士が打ち鳴らされた音は爆音を裂いて誤解なくロクサスの耳にまで届いている。
尋常でない速度と重さの剣戟の応酬。そのレベルはロクサスよりも更に高い位置にある。
――――しかし、アクアは押されていた。
途切れない剣戟の流星が、徐々にアクアに近くなっていく。
危ないとロクサスが判断したのとほぼ同時に火花とアクアの体が重なった。
アクアがひるむ。ヴァニタスはキーブレードを大きく振りかぶる。
激音と共にキーブレードはアクアの体を強打した。
アクアは真っ逆さまに地面へ落ちる――――寸前で、ロクサスはどうにか抱き止めた。
「ちょっと大丈夫……!?」
「いって……おも」
「――――なんか言った?」
「え?……え?」
抱き止めたアクアは礼だけ置いてさっさと立ち上がった。いやにぶっきらぼうな態度だ。
ロクサスはヴァニタスの衝撃の重みで未だ痺れる両腕に顔をしかめた。
ヴァニタスは軽やかに着地している。アクアとの激しい攻防などなかったかのようにけろりとしている。
アクアとロクサスを見下ろすヴァニタスは、やはり無言だ。
「――――ってなぁ! さっきから僕のバンパーげしげししないでくれるかフルフェイスの兄ちゃん!
ちょっと強いからって調子になんない! 僕には先生っていうつよーい味方とセキっつーバックがいるんやからなっ!?」
反して、足元は騒がしい。
爆発主らしいこの車はビビだった。黙っていれば普通の自動車であるビビを、ロクサスは見た目だけでは区別できない。ちなみに「強い」味方からは外されたセキは、未だに――――。
瞬間、背後を盗み見たロクサスの視界を、紅蓮の弓矢が切り裂いた。
「うわっ――――ッ!」
ロクサスが息を呑んだ。細い弓矢に大きな赤熱が走り、電柱ほどまで長く太い炎の剣を成す。
それをセキが握り締め、炎熱の刃がヴァニタスを襲った。巨大さと威力を伴った一閃――――しかしヴァニタスを捉えるには速度が足りない。
ヴァニタスはバックステップで無理なく炎の刃を飛び越えた。
「乗れ!」
ヴァニタスに続けて剣を振るう。ヴァニタスがビビから飛び降りた。ロクサスもアクアもビビに乗り込み、セキもそれに続いた。
ビビが走る。マフラーを轟かせて白煙を振りまき、タイヤと地面への間で強烈な熱を生み、急発進特有の滑りを起こし、全速前進。
ヴァニタスを置き去りにして、3人はその場から逃げ出した。
「……追ってこないな」
「あいつなら追撃は不可能なことじゃない。……見逃されたみたいだな」
「そりゃ幸いかな……ビビ、とりあえずソラと」
「おうおうおうおうおう。んなことよりセキー。セキ・グレンさんよー。ぼくの自慢のぷりちーなバンパーをコゲコゲにしといてなに仕切ってんねんワレ。お前だけ叩き出してもええんやぞコレ」
「…………すまん」
「ほいほいほいほいと謝れば許しれくれるとおもったら大間違いやぞセキー。誠意が足りんわ誠意がー。土下座せーや土下座をー。倍返しやぞワレー」
「えーと、ビビ……君?で、いいのかな?」
「はーい。ぼくがまさしくビビ君でーす。ところでお嬢さんはどちら様?」
「アクアよ。……一応説明すると、彼はロクサス。いい?」
「ロクサスなー。なんや先生と一緒で強そうな感じするねー君はー。セキとはえらい違うで僕元気。……で、アクアちゃんなーに?」
「逃げてるの、私達」
「あー、さっきのフルフェイス野郎なー。あいつマジムカつくわー。なんて言ってもぼくの自慢のバンパーを足蹴にやん?
泥で汚れるやん。まじないわー。や、いっちゃん最悪はコゲコゲの黒にしたそこのセキってーのなんやけ」
「――――ふざけてないで、しっかり走って。万に一つもあいつの接近を許さないで。いいわね?」
「はい……」
「声が小さい!」
「ハッ!イエス!アイ・アイ・マム!」
ぴたりとビビは無駄口を止めた。ミラーに映るヴァニタスはぽつんと立ち尽くしている。追ってくる様子はない。
豪快なアクセルワークでビビは地下空洞を駆け抜けていく。セキはふぅと息を吐いた。
「ありがとう、ビビ。いいタイミングだった」
「ったり前やん。ぼくを誰だと思ってますねん」
「この子は――――?」
助手席に座るアクアが抱きかかえているのはひとりの少女だ。固く目を閉ざし、これだけの喧騒の後でも起きる気配はまるでない。
「ヒスイだ。……心を失ってしまっているらしい」
「そう。……ヒスイ、ね。私はアクア。よろしくね」
「なぁ、セキ。今、心を失ってしまっている……っていったけどさ」
「言葉通りだよ、ロクサス。……それ以上は言えない」
頑なだった。ヒスイの話題を振ると、必ずセキは口を噤んだ。
何故――――?
当たり前の疑問符。しかし敢えてロクサスもアクアも口には出さない。
影を感じたからだ。闇といってもいい。傷口と言い換えてもいい。
仮にそれをつつけば、取り返しようもなくセキが破壊されてしまうのではないか――――?
その確信にも似た予感があった。いま、セキにそれを聞くのはまずい。
「それ以外のことは聞かないさ。俺たち……いや、俺が知りたいのはたったひとつだ」
「なに?」
「失った心っていうのは……取り戻せるのか?」
「…………ああ、たぶんな」
ビビが黙々と走っていく。三様に沈黙する車内。
――――重苦しい沈黙を斬り裂いたのは、鈍い衝撃だった。