KH 3-05
「……セキ。セキ・グレン」
――――あのハートレスとは、似ても似つかない。見た目以上に、その気配がだ。
心の弱さと細くも強い芯を持ち、その弱さを振り払う炎を武器に戦ったハートレスのセキ・グレンとは対照的。
このセキ・グレンを名乗る男は、自身の心の弱さを――――もっと言えば、そういった心の機微そのものを凍らせて閉じ込めてしまったような印象を受ける。
「わたしのニセモノが世話になったらしい。しかし礼を言うよ。おかげで、わたしはこうしてこの場に出られたのだから」
「にせもの……?」
ソラの疑問に、そのセキ・グレンは靴底を鳴らして答えた。脳味噌を突き刺すような刺激が場を包み、周囲は青白く染め上げられた。
吐く息が白くなる。ソラに現象のVTRを1コマたりとも理解させる気がないほどに早く、冷気がこの場を支配した。
「私はセキ。この氷は私の力。一切に揺らぎを許さず、刈り取り、鎮める――――堰の力。
あらゆるを内包し、積み上げる力。この大紅蓮地獄こそ、セキ・グレンである私の力だ。
歪で不純なまがいものなど、取るに足らん。そうだろう?ヒスイちゃん?」
「……セキ……」
「おまえもだ、キーブレードの勇者。あの混沌の権化である【無貌の王】を討ち滅ぼして世界に真実を取り戻すんだ。
世界に安定をもたらす事こそ、おまえの使命だ。私に付き従うべきだ。違うか?」
セキ・グレンがソラに手を差し伸べた。
慈愛はない。狂喜もない。憎悪もない。ただ、冷たい正義があった。
「どうした?」
「……おまえの言っていることは、たぶん、正しいんだろうな」
「では――――なぜ?」
「わからないのか?」
ソラの後ろに隠れるヒスイ。その体は震えていた。
場を満たす冷気のせい?――――違う。瞳に映る恐怖の色は間違いではない。
ヒスイはセキ・グレンに恐怖している。
「なにもわからないなら、せめて俺は俺を信じる。心をつないだ、大切な友達との約束を守る」
「大切な友達――――? 笑わせるな。そんなヤツ、この場のどこにいる? それはこの私の正しさを否定しているのか?」
「ヒスイを……ヒスイの心を守るのはアイツとの約束だ……そのヒスイを怖がらせるおまえが、本当に本物の『正しさ』とは思えない!」
「大局を見ようともせず、この瞬間の感情にだけ身を委ねるか。どうやら、おまえの『正しい資質』も情に曇る欠陥品のようだな。
――――その大切な友達とかいう『まがいもの《ハートレス》』が、私のプログラム通りの操り人形に過ぎなくてもか? その約束そのものがまがいものなんだよ。
おまえはそれを拠り所に、正しさと感じたこの私に刃を向けるのか?」
「まがいものなんかじゃない! アイツは現実にいたんだ。アイツの心は騙されていても、その心そのものは嘘じゃなかった!
震えるほどの恐怖をねじ伏せて、自分の支配者とまで戦っていたアイツが『心を持たない人形《ハートレス》』であるもんか!
それがわからないおまえの方が――――よっぽど『冷酷《ハートレス》』だ!」
「……なるほど、おまえは正しく、呆れるほどに『愚者《勇者》』だよ。シンプルな理屈で納得してくれると思った私が浅はかだったようだね。
理性でなく感性を重視する。正しい答えを良しとしない、強く清い心。まさしく、『世界の心のキーブレード』に相応しい。
相応しいが……それも、こんなもの。この程度だ。期待したほどではなかった。取るに足らない」
ソラはキーブレードをセキ・グレンに向ける。セキ・グレンは表情を一切動かさない。両手をポケットに入れて、氷像のように硬直している。
――――タイミングが掴めない。
相手には言葉ほど感情の機微がない。怒りも戦意もない。
攻撃する気があるのか? 誘い込まれているのか? そもそも戦う気があるのか? 生きているのか?
人間に、ここまで心を停止させることができるのか?
得体が知れない。人間とは思えない。
ハートレス――――?
違う。もっと違う。根本が異なっている。
異質。異端。異常。
単なるヒトの形を持ったコレが、初めて見る怪物のように。
「……キーブレードの勇者とは不便だな。なまじ心を感じずぎるせいで、私や【無貌の王】に過剰なほど警戒している」
過剰なものか。セキ・グレンがなにを仕掛けてくるかまったく予想がつかないのだ。迂闊に打ち込めない。
「――――恐怖に屈するか? だらしないな」
だらしないな。その一言に、心が一瞬震えた。ソラだけでなく。
ノイズのような震えが空に伝搬した――――今!
「そこだッ!」
キーブレードが炎を伴い冷気を裂いた。
緋色の横一文字がセキ・グレンを両断した。
「邪気を……心にて斬る、か。見事。一呼吸にも満たない精神の震えを掴み取ったその感性は賞賛に値する」
「アイツみたいな喋り方して……!」
「アイツ……? ああ、【無貌の王】か。無理はないな。彼の王と私の感性には共通項がある。無論、異なる要素が圧倒的だと自負しているがね」
緋色のラインに体を焼かれても尚、セキ・グレンは揺るがない。蚊に刺された程度にも揺らいでいない。ダメージがない――――馬鹿な。
「さる世界には、氷の巨神がいるそうだ。その絶対的な凍結力は空に氷塊を無数に散りばめる程だそうだが――――反面、ただの一歩のために足を裂き落とさなければならない」
私にはそれがよくわかる。セキ・グレンはそう言った。
つまり、かつてソラが見たあの氷の巨神のように、ただの痛みでは効果がないのだ。
ソラが操れる炎の魔力では足りない。邪気を斬る程度の剣では不足している。
一撃。今の炎の波動ではなく、直に叩き込むほかはない。
「…………」
「…………」
空気が氷結を始めている。
刻一刻と絶対零度に近づいていく大気の中、セキ・グレンに歩み寄っていく。ソラはキーブレードを構えた。
ふたりの位置はまごうことなきキーブレードの間合い。それからセキ・グレンは逃げない。抵抗しない。心を揺らさない。
凍りつかせている。
自身の精神。自身の肉体。のみならず。靴底から床を。肌から空を。そしてソラを。
氷がソラの体にまとわりつく。息が白く凍え、ソラの体は徐々に凍りついていく。キーブレードに燈した炎など抵抗にさえならない。熱が奪われていく。
冷気が体を侵食する。肉を犯し、骨を刺し――――心まで。
これは分の悪い賭けだ。
しかしソラは直感していた。
闇雲に斬り結んでも勝機はない。今の居合い答えを出した。セキ・グレンの骨身を溶かすのでは足りない。溶かし、砕かなければ。
それができるのは表面だけを叩くのではダメだ。
確実に、完璧なタイミングで、ただの一撃。感情を爆発させることが必要だ。
ソラの意識が、ぽつぽつと黒くなってくる。
残りの――――視界は、白く――なる――――。
目が凍――いや、雪――――?
手、悴む――――。
――――感
覚、もう――
――が――――
ま――――――。
――――。
――――――――。
――――ッ。
「っけえええええええええ!!」
瞬間、爆炎が箱庭を薙ぎ払った。
タイヤ痕のような剣撃の名残がセキ・グレンに刻まれた。
ソラはその場に崩れ落ちる。全身の感覚が曖昧だ。
セキ・グレンは体をくの字に曲げている。効いている……ように見える。轍のような傷跡が赤々と燃えている。
やった。
意識が途切れる。その瞬間まで、ソラは弱々しく口元を緩めていた。
やったぞ、約束、守れ――た――――。