KH 3-06
「…………あれ?」
うつ伏せに倒れた瞬間、ソラの意識はハッキリとした。機能が凍結仕掛けていた体が嘘みたいに軽い。
目をぱちくりとするソラの傍には――――ヒスイがいた。
「これ……ヒスイが?」
「そう。これが私の能力だ。『裏返す』力」
「うらがえす……?」
「リフレク。さかさま。反射。逆転。反転。革命。……呼び方はなんだっていい。
とにかく、これで私は状況を『ひっくり返した』。凍りついた君を暖めたり、この箱庭の開放術式を使ってあのセキ・グレンを封印したりできる」
「あいつを……封印していたのか?」
「この箱庭の中にセキ・グレンを閉じ込めた――――までは良かったんだが、それだけでは破られそうだったから、念を押したんだ。
封印を小分けにして、周囲の『魔』の一匹に与えた。一部を私にも移した。……私もこの場に封じられる羽目になったがね」
「それが……あの状態?」
「…………ハートレスが私達に影響されたのは不可抗力だ」
「嘘を言うなよ、あばずれ」
ヒスイの言葉を続かせまいと、セキ・グレンが口を挟んだ。
息も絶え絶え、体は震えている。ソラの袈裟懸けの一閃はセキ・グレンの肩口から腿までを大きく抉っている。およそ口が聞ける状態ではない。
それでもなお動けるのは、ひとえに彼のその特異性故だろう。無貌の王との共通項。人あらざる気配。
「よくもやってくれたじゃあないか。この私を出し抜くとはな。
だがアレのことは……私にも見えていた。アレの中から見ていたぞ。私の氷。お前の反転。
――――『それだけではない』。それ以外にもだ。あのハートレスには要素がある。あの剣。あの精神性。……ヤツだな? なにが不可抗力だ。全て貴様の掌の上だ!」
「……そうでもない。ピースは用意できても、それが噛み合うかまでは、どう転ぶのかわからなかった。――――単に運が良かったんだよ。お前がこうも早々に退場させられることも含めて」
「――――ッッッ!エーマ・ヒスイ!貴様ぁぁぁぁああああ!!」
瞬間、セキ・グレンの足元が鍵穴の形に輝いた。
氷の仮面が溶け落ちたセキ・グレンは鍵穴の中に怨嗟とともに呑み込まれ――――。
最後には、小さな鍵になった。
「お礼を言わないといけないね。ありがとう、ソラ」
「……なんなんだ?」
「ん?」
「おまえも、あいつも……なんなんだよ! どうしてっ……どうしてそんなになれるんだ!? ビビだって、ハートレスのセキだって、今のセキ・グレンだって……心があったのに!」
「……平気に見える?」
「え?」
「いや……私のことはこの際、どうでもいいこと。重要なのは常に未来だ」
ヒスイは頭を左右に振った。戸惑うソラの肩を柔らかく撫でた。
溶けていくような儚げな笑顔を見せる。それを見たソラの心が不安に揺れるほどの。
「あなたが元の居場所に戻るには、呪いの芽を摘み取るしかない」
「……どういうこと?」
「呪いの芽。絶望の花。悲しみの実。その結実。――――最後の幻想、とも呼べるもの。
あの子が願い、私が呪いに変えてしまったもの……この世界の中枢に寄生した幻想を、破壊しなくてはいけない」
「寄生した……幻想?」
「この世界は『はざま』にある。光と闇。生と死。空と海。昼と夜。幻と現。心と体。表と裏。そのあいだに引かれた境界線上の世界。
それがここ。……そういう場所に居着く存在が、果たして一体どういうものなのか……おまえ、わかるか?」
さっぱりわからない――――。
【無貌の王】といい氷のセキ・グレンといい、もったいぶった言い方ばかりする。まるでこちらを試すような調子だ。
特に【無貌の王】は心も大きく揺れ動いて、前に立つだけでも気が折れたものだが。
ソラの沈黙を答えと解釈したらしい。ヒスイは口を開いた。溶けていきそうな儚い様子は、変わらない。
「ここには本来『なにもない』。境界は超えるもの。越えられぬもの。『そのもの』に価値はなく、常にその先にあるものとの別離と邂逅を暗喩するもの。
――――故に。この場にいるべきものは『存在しないもの』。即ち、死者。魑魅魍魎。心を持たぬ……否、持たざるもの。
この世界に『存在する意味を持たせたもの』を破壊する。それがおまえがこの世界から出る方法だ」
「…………」
ヒスイの言っていることは……難しい。話し方が固っ苦しいし、漢字が時々読めない。テツガク的な面もある。ありていに言って、よくわからない。
けれど一点、理解できたことがある。
この子の儚げな顔の意味だ。この子の哀しみ。それは――――。
「――――よくわからないけどさ。俺がここから出る方法なら、聞いたよ。……その、あの子……あいつを倒せばいいって」
「その通り。でも、それでもまだ完全じゃない」
「え?」
「心は鏡。世界はその線上に立った人間の姿を映し出し、溶け込ませるもの。それはやがて円環を成し、魂が輪廻するスピラに……本物の『世界の心』になる。
既にあの子の願いもこの世界に焼きついてしまっている。世界に寄生する幻想を破壊できないのなら、結局おまえは呪いを受けたままになる」
「……それ、もしかしてさ。俺にこの世界をぶっ壊せって言ってるのか?」
「まさしくその通りだ。この世界を牛耳る【無貌の王】はこのカギで抑えられる。後はおまえの『呪い主』を倒して、ユグドラシルの『鍵穴』を閉じればいい。この世界の輪は閉じ、おまえは正しい場所に帰れるはずだ」
そう言ったヒスイは視線を逸らした。表情が暗くなる。消えてしないそうな存在が、闇に染まっていく。
ソラを呪ったのは、結果的に呪ってしまったのは――――あの黒ずくめの少女だ。たとえ変質させた元凶がこのヒスイであったとしても。
彼女は泣いていた。願いが呪いに変わってしまった。そう言っていた。
『ソラに会いたい』。この世界でそれを願ったのはまぎれもなく彼女だ。それは切実な願いだったはずだ。
そしてヒスイはそれを叶えた。呪いに変えてまで。
彼女の願いは呪いに変わってしまった。ソラは呪われた。
――――だとしても。
ソラは自分の胸に手を置いた。そこから溢れるものをすくい取ろうとするように。
「……いやだ」
「なんだと……?」
「例え呪いになってしまったとしても。最初の気持ちは願いだったんだ。俺はそれ信じたい。その気持ちは、ウソなんかじゃなかったんだって」
「……ウソかホントかは重要じゃない。今だ。今この時の形が問題なんだ。この現状を打破する以外、物語は本来の未来に続かない。おまえが元の場所に帰ることはできない」
「そのために一緒に破壊しろっていうのか? 願いを……心を」
「そうだ。いくら高尚でも純粋でも切実でも……潔白であったとしても、おまえの邪魔なら切り捨てろ。世界を守れ。未来を守れ」
「――――あの子は泣いてたんだ!」
ヒスイの理屈を、ソラは感情で否定した。
面食らったヒスイにソラが続ける。
――――こうなってしまって、ソラを呪ってしまって、彼女は泣いているのだ。
後悔している。反省している。取り返しのつかない過去に傷ついている。
彼女はこの世界の住人なのか。『心を無くした人間』なのか。
ちがう。彼女には心がある。良心がある。
「なら俺も、良心で応えたい――――」
「世界は綺麗なだけじゃ救われない。大きいものより小さいものを優先する考え方では、その道を歩む先で、お前もいずれ泣くことになるぞ。時が閉じた闇の世界で」
「ヒスイの言うことは難しくてよくわからないけれどさ。……さっきも言っただろ?
俺に全部がわからないなら、俺は俺を信じて走り続けたいんだ。良心をね。それに、なにより、大きいだの小さいだのって価値を決めるのは――――俺だ。俺自身の心だ」
「…………」
それを聞いて、ヒスイは口を閉じた。
悲しみの顔が、消える。
弱々しくも、彼女は笑った。
「裏切るなよ、その決意」
「ああ」
「ふん。シオンの見る目も確かだったようだな」
「え?それって――――」
あの子のことか。そう聞こうとしたソラの口を、視界の端の雷光が制した。