KH 4-09
真白の空間。
足元から引っ張られていく感覚が全身を満たしている。
落ちているのか。昇っているのか。それさえ曖昧になる。
「このままじっと目を閉じれば、全部を忘れて、元の世界に戻れる」
声がする。どこか聞きなれた、親しみのある声。
「――――どうする?」
そう声は問いかける。
なんだ、とソラは口を緩ませた。
どうするか、などと。
――――じっとしているはずがない。目を閉じてなんかいられない。
ソラはそんな選択をしない。「しない」を選ばない。
ソラが「やる」ことを確信した問いかけだった。
――――あのとき咄嗟に無貌の王を守った衝動は消えていない。
つながりを求める心の糸は切れていない。
この想いは、未だ光り輝いている。
「ああ。行ってこい。……さすがは、俺の――――」
「――――だから!なぜだ!!」
ヴァニタスの光線に焼けたらしい。無貌の王が半身を焦がしている。
ヴァニタスは未だ狂ったように咆哮を続けている。体の奥から溢れ出るエネルギーを制御できていない。
最早標的さえ見失い、周囲をでたらめに破壊し、燃焼し、滅却している。
しかし空手でもなおヴァニタスの前に立つ無貌の王。その背中を見て、ソラは言った。
「……心は、厳しいだけじゃない。強いだけじゃないんだ」
「説教か?この我に」
「……おまえは、いつも厳しかったよな。俺にも、リクにも……セキに特に辛く、厳しく当たってた。そして多分、自分にも」
「だったらどうした?」
傍に立ったソラを、無貌の王が目で射抜いた。厳しく、辛く、容赦のない眼光。
それでも、ソラは言葉を止めなかった。
「心は厳しいだけでも、強いだけでもない。――――いろんなものが詰まってる。それをおまえに思い出して欲しいんだ」
「…………どうやって?」
「許す!」
「………………は?」
「俺は、みんなに酷いことをしたおまえを許せない。……でも、許せるようになりたい。おまえにもそうして欲しいんだ」
「跪き、泣いて許しを請えとでも?……馬鹿な。そんなレベルととっくに過ぎている。無理だ。無駄だよ光の勇者。おまえの頑張りは無意味だ」
「やってみなくちゃわからない……!」
「なにを言って……」
「――――おまえは王様なんだろ!?力があって、偉いんだろ!?だったら諦めるな!どれだけ時間を掛けたって、ダメだなんて言わないでくれ」
ソラが叫んだ。祈りと命令が入り混じったような言葉。
無貌の王は目を見開いた。唇が震えている。何かを言おうとして、躊躇することを繰り返している。それを背負い、ソラが再びキーブレードを握りしめた。両手に構える。ヴァニタスがこちらに気がついた。ヴァニタスのキーブレードが足場のドラゴンの表皮を削り取る。
ソラは一気に踏み込んだ。最早小難しい駆け引きをしている時間はない。ヴァニタスまでの距離を全速力で駆け抜ける――――!
突っ込んでくるソラを前に、ヴァニタスのキーブレードが弓に変形した。光の矢が雨のように降り注いだ。圧倒的な手数――――だが、狙いが甘い。10発の内1発が体を掠める程度だ。
致命傷をキーブレードで斬り落とし、更に進む。背後で矢が撃ち込まれて何かが爆発する。熱量と音圧がソラを襲う。――――ソラは歯を噛み締める。集中を乱してはいけない。気を乱してはいけない。心が緩めば、目の前の小さな魔人はソラの心を容赦なく握りつぶすだろう。
弓矢をいなし、あと5歩でヴァニタスをキーブレードの射程に収めるところにまで接近した。
ここからが正念場――――ソラと同時にヴァニタスもそれを悟った。
ソラが大きく踏み込み、ヴァニタスのキーブレードがまた変形する。
キーブレードの刀身が細長くしなって――――鞭状に。
「しまっ……!!」
ソラが気付いた時にはソラのキーブレードにはヴァニタスの鞭が絡み付いていた。
次の瞬間にはソラのキーブレードは空高くまで飛ばされた。空手。ヴァニタスがキーブレードを剣に戻した。
射程まで、あと2歩。
ヴァニタスが深く踏み込み――――射程距離。
ヴァニタスのキーブレードが風を切った。
刺突。最速の一撃が、ソラを捉えた。
目の前が真っ赤に染まる。
熱量と音圧が、ソラを呑み込んだ。
「…………」
目が眩む。燃える空。ドラゴンが落ちる。
ソラは助けを求めるように手を伸ばす。
空の右手は、空を切った。
そして。
「いけっ!!」
合図と共に、ソラは右手を握りしめた。
ヴァニタスのキーブレードはソラを捉えている。だが貫いてはいない。僅かに胸の王冠のネックレスに触れただけ。
踏み込みが足りなかったのだ。ヴァニタスが躊躇った。
突如眼前に炎が立ち上ったためだ。心が壊れたヴァニタスは本能的に身を仰け反らせた。
決定的な隙だった。ソラは拳を結び。炎の渦に飛び込み。
縦一文字にヴァニタスを斬り裂いた。
「…………っは……!」
ソラは飛び退き、肩を上下させて空気を吸った。緊張感に張り詰めていた神経を弛緩させる。
炎はソラを焼かなかった。ヴァニタスとの間の炎の渦が『剣』の姿を取る。突き刺さったその『剣』をおもむろに引き抜き。
「危ないことするなぁ……」
セキが肩をすくめた。
後ろに背負ったヒスイがことんとドラゴンの表皮に降り立つ。セキは足のロケット噴射を止め、普通の靴に足を戻して着地した。
「お前のだって、わかったからさ。いけるって思ったんだ」
「おう、まーな」
ソラの笑顔に、セキが親指を上に突き立てて返した。
「ヴっ……ぁ……ぁぁああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
セキが炎の剣の先をヴァニタスに向けた。ヴァニタスはよろめき、顔を両手で押さえている。
被っていた仮面は真っ二つに割れてその場に落ちている。腹の奥から絞り出した濁った声で叫んでいる。
それは、痛みにあげる泣き声のようだった。
ヴァニタスが苦しんでいる。顔を押さえる両手の指の間から双眸が覗き。
ソラと目が合った。
怒り、憎しみ、恨み、諦め、絶望、落胆、嫌悪――――ドス黒い感情の濁流が流れ込んでくる。
ソラはナイフで胸を貫かれたように錯覚した。小さな傷が胸を食い潰して大穴を開けていく。ソラの心を鷲掴みにする。そのまま握り潰――――。
「させないよ」
ヒスイがヴァニタスに『鍵』を差し込んだ。本物の『セキ・グレン』を封じ込めた鍵。
瞬間、ヴァニタスは真っ白に凍りついた。ヴァニタスの心とともに、ドス黒いものまで残さず一切を。
プレッシャーが消えた。
ソラはその場に崩れ落ちた。